伝記
張九齢は、唐代中期の政治家で詩人である。字は子寿、諡は文献。儀鳳3年(678年)に生まれ、開元28年(740年)に没した。生年は673年とする説もある。韶州曲江県の出身で、そこは当時の唐の領域ではやや辺境にあたる嶺南の地だった。家は晋の宰相張華とその長子の流れを引くと称し、曾祖父の張君政が韶州の長史を務めてこの地に住みついたという。祖父は県令、父は県の長史を務めた。寒門の出であった。
幼い頃から聡明で文才があったと伝えられる。685年、12歳のときに広州刺史の王方慶へ手紙を書く機会があり、王方慶は感心して、この子は将来大きなことをするだろうと評したという。流罪で嶺南に来た張説も九齢に会って感銘を受け、親切に遇した。九齢は進士に及第し、則天武后の長安2年(702年)のこととされ、そのときの成績は最上位であったとも伝わる。712年には左拾遺に任じられた。校書郎を務め、のちに玄宗となる李隆基が皇太子であった頃に、文才ある人々を集めて自ら試験したときにも最高の成績を収め、右拾遺となった。玄宗が即位した後は、天地を祀る祭祀を行うよう上奏し、玄宗はこれに従った。713年頃には宰相の姚崇に、官吏登用の清廉と公正の大切さを説く書を送り、姚崇を感心させている。
人の才能を見抜く力で知られ、玄宗の命で趙冬曦とともに吏部が選んだ官吏の任地を定め、公正で適切だと評された。722年に吏部の司勲員外郎となったころ、宰相として中書令の座にあった同姓の張説は、九齢を兄弟のように遇し、きっと最も優れた詩人になるだろうと語った。九齢も才能を認められたことを喜び、張説に従う者となった。723年には中書舎人となった。725年、張説の進言で玄宗が泰山で封禅を行うと、張説が目をかけた官僚たちの昇進が行われることになった。九齢は恨みを買うと考えて張説を諫めたが聞き入れられず、また財貨を集める才で玄宗に重んじられていた宇文融への警戒も促した。それでも張説は726年に宇文融の弾劾で職を追われ、九齢は太常少卿を経て冀州刺史に出された。年老いた母が故郷の韶州にいたため、長江以南への任地替えを願い出て、玄宗が孝心を称えて洪州都督とし、のちに桂州都督・嶺南道の按察使となった。玄宗は弟の張九章・張九皋も同じ地方の刺史とし、兄弟が休日に母を訪ねられるようにした。731年の初め頃に張説が亡くなると、玄宗はその推薦を思い出して九齢を召し返し、秘書少監・集賢院学士とした。
玄宗の開元21年(733年)以降は尚書右丞相の任にあたった。科挙出身の官僚であったため、李林甫などの貴族官僚とは折り合いが悪く、玄宗の皇太子問題をめぐって李林甫と衝突した。李林甫の巧妙な策略の前に敗れ、荊州に左遷された。それでも玄宗は九齢を高く評価し続け、官を辞して故郷に帰った九齢は、文学や史書に親しんだ。安禄山の「狼子野心」を見抜き、誅殺して後の災いを絶つよう玄宗に諫言した人としても知られる。
九齢は「開元最後の賢相」と称えられ、孟浩然や王維から希望を託されたこともあった。王夫之は『読通鑑論』で、宋璟・盧懐慎・張九齢が清貞の徳で宰相となったとし、九齢は清にして和、名声を追わず富を絶ち、朝廷に廉恥の心を知らせて開元の世を盛んにしたと絶賛した。詩は陳子昂と並んで「神味超逸」の風があるとされ、阮籍の「詠懐詩」の流れをくむ連作「感遇詩」12首や「望月懐遠」が有名である。著作に『張曲江集』20巻がある。
同じ年に亡くなった人物
- エゼルヘルド (ウェセックス王) (740年)
- クリトのアンドレイ (740年)
- 孟浩然 (740年没)
- 呉道玄 (740年)
- ザイド・ブン・アリー (740年没)