伝記
ジッドゥ・クリシュナムルティは、1895年5月12日、南インドのマドラス近郊にある小さな町マダナパルで、バラモンの家系に生まれた宗教的な哲人、精神の教師である。父はジッドゥ・ナラニア、母はサンジーヴァンマで、第8子だったため、インドの習慣に従ってクリシュナにあやかり、「クリシュナムルティ」と名付けられた。出生時の占星術では、多くの困難に出会うが偉大な教師になると判じられたという。父は大英帝国統治下の税務の公務員で多忙であり、母が子供たちの世話を主に担った。母は信心深く優しい人物で、霊媒であったと考えられており、亡くなった姉をしばしば見たと言われる。11人の兄弟のうち生き延びたのは6名で、彼がのちに言及しているのは弟のニトヤナンダだけである。クリシュナムルティは父の仕事の関係で何度も転校し、病気で1年遅れていたこともあって、勉強に興味を持てず、教師には知的に遅れていると思われていた。しかし機械には強い興味を持っていた。母は彼が10歳だった1905年に亡くなった。
父は1881年に神智学協会に入り、公務員を退職した後は協会に再就職して、アディヤールの本部のそばに住んだ。14歳のころ、協会の幹部チャールズ・W・レッドビーターが、少年のクリシュナムルティを見出した。レッドビーターは、霊視によって少年の神々しいオーラに気づいたとされ、彼の中にはキリストと同じ霊が宿っていると考えて、父の同意を得て、クリシュナムルティと弟を協会に引き取った。少年はロード・マイトレーヤ(弥勒菩薩)と呼ばれる世界教師の「乗り物」となるべく、英才教育を受けた。この教育は、インド的なものを排し、イギリス紳士を目指すもので、言葉は英語だけだったため、母語も忘れていった。1909年に協会の会長アニー・ベサントと出会い、ベサントは兄弟の後見人となった。母を亡くしていた彼とベサントは母子のような関係を築き、のちに意見が分かれても、ベサントが死ぬまで二人の愛情は変わらなかった。
1911年にベサントは兄弟を連れて渡英した。1912年には、オックスフォード大学の入学準備のために、再び渡英した。父ナラニアは、息子たちを取り戻そうとして養育権をめぐって訴訟を起こしたが、敗訴した。クリシュナムルティは、国や家族との絆を失い、義務をなくして自由になると同時に、深く苦しむことになった。1914年に第一次世界大戦が始まり、イギリス人のインド人への偏見が強い中で、疎外感にさいなまれながら寂しい生活を送った。どこにも合格せず、戦後はパリで勉強を続けた。しだいに神智学への興味も失っていった。
1921年にインドに戻り、翌1922年にアメリカのカリフォルニア州オジャイに移った。ここで瞑想修行を行い、1922年に重要な神秘体験が始まった。すべてのものが自分であるという体験で、前後には激痛を伴う肉体的な現象があり、のちに「ザ・プロセス」と呼ばれた。1925年、27歳の弟ニトヤナンダが亡くなると、孤独は決定的なものになり、神智学から距離を取り始めた。1927年中頃には、現在知られる彼の思想が形作られ、神智学協会の権威も教義も秘教的な方法も認めず、自由について語るようになった。1929年8月2日、34歳で、3000人あまりの団員がいた「東方の星教団」を解散した。あらゆる伝統を否定し、人は組織や信条、教義によっては真理に到達できず、自己認識によってのみ真理を見出せると説いた。1986年2月17日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ドナ・リード (1986年没)
- グレゴリー・ジャービス (1986年没)
- ミシェル・ド・セルトー (1986年没)
- レオ・ジェームス・レインウォーター (1986年没)
- フローラ・ハイマン (1986年没)
同じ地域に関係する人物
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- ジャネット・リー (2004年没)
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