伝記
コリューシュ、本名ミシェル・コルッチは、1944年10月28日にパリで生まれ、1986年6月19日にバイクの事故で没したフランスの俳優であり、ユーモリストである。主にコメディに出演したが、後年にはシリアスな役も少なからず演じた。1984年には映画でセザール賞の主演男優賞を受賞し、1985年には貧しい人に無料で食事を配る団体「心のレストラン」を立ち上げた。
パリ14区の病院で、イタリア移民の父オノリオ・コルッチと、母シモーヌ・ブイエの間に生まれた。父は朝市で八百屋を営んでいたが、1947年に31歳で急性灰白髄炎により死去した。母は女手一つで2人の子を育てることになり、夫の家族にも見放され、姉のダニエルとともに、一部屋と台所だけの狭い家で暮らした。母は脊柱側彎症を患い、治療のため子どもたちを連れてベルクに引っ越さざるを得なかった。そうした状況でも、子どもたちの服装に気を配って体裁を繕おうとしたが、ミシェルは、母のこうした見栄が嫌だった。パリ南部郊外モンルージュの小学校に入ったが、勉強には興味がなく、教師に逆らい、級友を笑わせるのが得意だった。学業は初等教育修了試験までしか受けなかった。そのうち不良グループを作って小さな非行を重ね、度々警察の厄介になった。15歳のとき、年老いた女性のバッグをひったくろうとして通行人に阻止され、これが反省の機会になった。電報局員、陶器職人、カフェの給仕、写真家の見習い、消防団員など職を転々とした。21歳の誕生日に母から500フランの小切手をもらうと、楽器屋でギターを買い、習ったことはなく、自己流で弾いた。
1964年に兵役に服したが、不服従の罪で営倉に入れられた。除隊後は、母と花屋を営んだものの、仕事に興味が湧かず、すぐ辞めて、母との不和の原因になった。1960年代の終わりに音楽を志し、パリのカフェで流しの歌手として歌った。キャバレーでジョルジュ・ムスタキと知り合い、その家に転がり込んで、経済的にも支援を受けた。1969年6月12日には、ロマン・ブテイユとともに、劇場カフェ「カフェ・ド・ラ・ガール」の設立時から参加した。ここは多くの若い俳優が夢を抱いて集まり、のちに著名な俳優を生んだ場所である。しかし酒癖の悪さで度々問題を起こし、稽古中に酔って乱暴を働いたのが原因で、劇団を追い出された。1970年には初の長編映画に出演し、1971年11月には新たな劇団を立ち上げた。この時期、のちの妻となるヴェロニク・カントールと出会い、1975年10月16日に結婚して、2人の子をもうけた。
またも酒癖の悪さから劇団を去り、ソロ活動を始めた。最初のコントが大成功し、「不躾だが、決して下品ではない」コメディアンと自称した。1974年には、オランピア劇場でサスペンダー付きのズボンと黄色いTシャツの衣装で演じ、これが彼のトレードマークとなった。1975年にはテレビ番組のパロディのコントで人気を博した。1976年に、ルイ・ド・フュネスらと共演した『手羽先とモモ』で主役を演じ、1977年には共同監督で映画を撮った。これが唯一の監督作となった。1981年のフランス大統領選挙には出馬を試みたが、様々な圧力により辞退した。
同じ年に亡くなった人物
- アンドレ・ルロワ=グーラン (1986年没)
- リリー・パルマー (1986年没)
- チャック・マッキンリー (1986年没)
- フアン・ルルフォ (1986年没)
- Domingo Garcia (1986年没)
同じ地域に関係する人物
- ニコラ1世 (モンテネグロ王) (1921年没)
- イダ・ルビンシュタイン (1960年没)
- フランソワーズ・ドルレアック (1967年没)
- ニコラエ・ティトゥレスク (1941年没)
- Chantal Chaude de Silans (2001年没)