HISTORICAL PERSON · 1986年没

ニコライ・セミョーノフ

ソビエト連邦の物理学者・化学者。1956年にノーベル化学賞を受賞し、カピッツァと原子核の磁場を測定する方法を発見した。

生涯
1986年没
死亡地
ロシア連邦(モスクワ)
出生地
ロシア連邦(サラトフ)
出典
世界地図
ロシア連邦(モスクワ)

伝記

ニコライ・ニコラエヴィチ・セミョーノフは、1896年4月15日(ユリウス暦では4月3日)にサラトフで生まれ、1986年9月25日にモスクワで没したソビエト連邦の物理学者であり、化学者である。化学変化の機構に関する研究で、1956年にノーベル化学賞を受賞した。ソ連およびロシアの化学者で、化学賞を受けたのは彼ただ一人とされる。

父は同名のニコライ・アレクサンドロヴィチ・セミョーノフ、母はエレーナ・ドミトリエヴァである。1913年にペトログラード大学物理学部に入学し、アブラム・ヨッフェに師事して、1917年に卒業した。卒業後はトムスクで助手、講師として働き、1916年に最初の研究論文を発表した。1918年にサマラに移住し、ロシア内戦では、1919年に白軍に徴用されたが、教職の猶予を得て従軍を免れたとされる。同じ年の12月には、赤軍の無線部隊に徴用された。1920年冬に除隊すると、ペルミやトムスクの大学で職を得た。やがてペトログラードに戻り、物理技術研究所の電子現象研究室を率いて、後には副所長となった。

1921年に文献学者のマリア・ボレシェ=リヴェロフスキーと結婚したが、2年後に失った。1922年には、ピョートル・カピッツァとともに、原子核の磁場を測定する方法を発見した。のちにこの実験装置はオットー・シュテルンとヴァルター・ゲルラッハによって改良され、シュテルン=ゲルラッハの実験として知られるようになった。1923年に、マリアの姪ナタリア・ブルツェヴァと再婚し、一男一女をもうけた。1925年にはヤコフ・フレンケルとともに、結露の動力学と蒸気の吸着を研究した。1927年には気体のイオン化を研究して『電子の化学』を出版し、1928年には、ウラジーミル・フォックとともに誘電体の温度破裂放電の理論を作った。

1928年にペトログラードのポリテクニカル研究所の教授となり、1931年にソ連科学アカデミーの化学物理研究所の設立に参加して、初代の所長となった。この研究所は1943年にチェルノゴロフカへ移った。1932年にはソ連科学アカデミーの正会員になった。化学反応の研究に本格的に取り組んだのは1932年からで、燃焼を含む反応への連鎖理論の応用を徹底的に分析した。酸化の過程にみられる誘導期の現象を説明するため、縮退分岐の理論を提唱し、化学の連鎖反応の分野の開拓に、経歴の大部分を捧げた。

著書『化学的反応速度論と連鎖反応』は1934年に刊行され、1935年に英語版が出た。これは、ソ連で最初に、枝分かれのない連鎖反応と枝分かれのある連鎖反応の詳細な理論を展開した本である。1954年には『化学反応速度論と反応性の諸問題』を刊行した。これらの反応速度論などの功績により、シリル・ヒンシェルウッドとともに、1956年のノーベル化学賞が与えられた。彼の考えは、重合反応の科学や、生物系の触媒の研究にも応用された。

共産党とソ連の長年の支持者で、1953年にアメリカの雑誌がソ連の科学に厳しい検閲があると非難すると、これを否定するソ連の反論を共同で執筆した。1971年にアメリカ大統領ニクソンに宛てた、ソ連の科学者の公開書簡にも署名した。レーニン勲章を9回受け、スターリン賞を1941年と1949年に、社会主義労働英雄の称号を1966年と1976年に受けた。1958年にはロンドン王立協会の外国会員に、1963年にはアメリカ科学アカデミーの外国会員になっている。

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