伝記
ジェラル・バヤルは、1883年5月16日、ブルサ県ゲムリク郡のウムルベイ村で生まれたトルコの政治家である。首相と大統領を歴任し、103歳まで生きた。父アブドゥッラー・フェフミ・エフェンディーは、露土戦争のあとブルガリアのプレヴネ(ロムともいわれる)を追われ、ウムルベイの中等学校の校長や、ゲムリクのムフティーを務めた。バヤルは三男で、初中等教育を終えると、ゲムリクで裁判所職員を務め、のちに銀行員として、ブルサの農業銀行やドイツ東方銀行などに勤めた。ブルサでは、フランス人司祭の運営する学校の講座にも通い、絹の生産の訓練も受けた。
1908年の青年トルコ人革命によって第二次立憲制が始まると、統一と進歩委員会に加わり、イズミル支部長を務めた。第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れ、1919年にギリシャ軍がイズミルを占領すると、「ガリプ・ホジャ」の偽名で民兵組織を率いて抵抗した。同年のオスマン帝国最後の議会では、サルハン県の代表として議員に選ばれたが、1920年にスルタン政府がギリシャによるイズミル支配を認めるセーヴル条約を結ぶと、これに反発して、ムスタファ・ケマルのアンカラ政府に参加した。同年に開かれた第1回トルコ大国民議会ではマニサから、1923年の第2回ではイズミルから議員に選ばれた。アンカラ政府では、1921年に経済相に任命され、1923年のローザンヌ条約の交渉では、イスメトの補佐官として加わった。
1923年に共和制が施行されると、アタテュルク政権のもとで、経済の専門家として新生トルコの経済政策を主導した。1924年には、民族資本のトルコ勧業銀行を設立して頭取に就いた。1932年から1937年にかけて、経済相を務めた。世界恐慌を受けて、首相のイノニュは、ソ連に範を取る国家資本主義をめざしたが、民間部門の育成を重視するバヤル(1934年の創姓法でバヤル姓を名乗った)とは、基本的な経済政策が違っていた。1937年にアタテュルクとの対立でイノニュが首相職を解かれると、バヤルが後継の首相、共和人民党の副党首に指名された。しかし翌1938年にアタテュルクが病没すると、後継の大統領となったイノニュは、別の人物を首相に据え、バヤルは名誉職の終身副党首に追いやられた。
第二次世界大戦後、イノニュによって複数政党制の導入が進められると、バヤルは、アドナン・メンデレスらとともに共和人民党を離れ、1946年に民主党を結成して党首に就いた。民主党は1950年の総選挙で大勝し、選挙によるトルコ史上初の政権交代が実現して、バヤルは同年、第3代大統領に選ばれた。メンデレス首相を中心に、保守的な地主の利害を代表して、農業を振興し、外資を導入して、経済の自由化を進めた。しかし1950年代末には、経済政策の失敗をごまかすために言論弾圧を進め、学生や知識人の支持を失い、厳格な世俗主義を緩めたことで、軍部の警戒も招いた。
1960年の軍事クーデターで、バヤル、メンデレスら民主党の幹部は逮捕され、マルマラ海のヤッス島に監禁された。裁判でバヤルは死刑判決を受けたが、高齢を理由に終身刑に減刑された。カイセリの刑務所で服役し、1964年に釈放されて、1966年には恩赦で名誉回復された。終身上院議員の地位は固辞して、政界から身を引いたが、民主党の後継政党である公正党に影響力を保った。1986年8月22日、イスタンブールで103歳で病没し、遺体は故郷のウムルベイに葬られた。
同じ年に亡くなった人物
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- アンドレイ・タルコフスキー (1986年没)
- ウラジミール・プラビク (1986年没)
- サド・ジョーンズ (1986年没)
- アグスティン・サウト・アラーナ (1986年没)
同じ地域に関係する人物
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- スアト・ハイリ・ウルギュプリュ (1981年没)
- ヤシャル・ケマル (2015年没)
- キラツァ・マリア (1390年没)
- ゼキ・ヴェリディ・トガン (1970年没)