伝記
キラツァ・マリアは、1348年に生まれた、ブルガリアの王女であり、東ローマ帝国皇帝アンドロニコス4世パレオロゴスの皇后である。第二次ブルガリア帝国の皇帝イヴァン・アレクサンダルの娘で、母は2人目の皇后テオドラ(ヴェネツィアの銀行家の娘で、改宗ユダヤ人)であった。のちの皇帝ヨハネス7世パレオロゴスの母にあたる。
幼いころはブルガリアの宮廷で過ごした。1355年にアンドロニコスと婚約したとされ、婚姻証書には、この縁組が東ローマ帝国とブルガリアのキリスト教徒には幸福を、異教徒には災いをもたらすであろうと記された。1355年から1357年のあいだに、二人は8、9歳ほどで結婚したといわれる。両国は15年ほど前に戦っており、この縁組は和平の一環で、東ローマ帝国にとってはトルコ人に対抗する同盟者を得る意味もあった。キラツァは1356年、7、8歳のころにブルガリアを離れ、東ローマ帝国に着くと、名をキラツァ・マリアに改めた。宮廷で夫とともに子どもたちに混じって教育を受け、二人は一緒に育って親しくなった。
夫のアンドロニコスと、その父ヨハネス5世パレオロゴスは、終始対立を続け、この対立はアンドロニコスの死まで解消されなかった。1370年に、息子ヨハネス7世が生まれた。1373年にアンドロニコスはヨハネス5世に熱した酢で失明させられたとされ、旅行家クラビホは、キラツァがその失明を部分的に治したと述べている。1376年8月12日、アンドロニコスはヨハネス5世を廃位して投獄した。このとき、ヴェネツィア人がヨハネス5世をテネドス島から救い出す計画を持っていたが、マリアは牢番の妻を拷問にかけ、計画を阻止したといわれる。1379年7月1日にヨハネス5世は共同皇帝として復位を許された。キラツァ・マリアは1376年から1379年まで、そして1381年から1385年まで、アンドロニコス4世の皇后であった。二人の間には1男2女が生まれた。
1385年に夫が没すると、マカリアという名の尼僧となり、余生を修道院で過ごしたとされる。1390年には、ヨハネス7世が遠征で不在のあいだ、セリュンブリアを治めたと考えられている。1392年には、のちに対立教皇アレクサンデル5世となるペトロス・フィラルゴスに福音書を贈った。1399年にヨハネス7世が共同皇帝としてコンスタンティノープルを治めることになると、息子の妃エイレネが若く経験が浅かったため、マリアは上級の皇后の地位についた。没年は1390年とされるが、このように1399年の記録もあり、確かではない。
同じ年に亡くなった人物
- Assar Tabrizi (1390年)
- サアドッディーン・タフターザーニー (1390年没)
- ジャン1世 (ロレーヌ公) (1390年没)
- ミカエル・パナレトス (1390年)
- フアン1世 (カスティーリャ王) (1390年没)
同じ地域に関係する人物
- バルバロス・ハイレッディン (1546年没)
- Mehmet Oktav (1996年没)
- ロマノス1世レカペノス (948年没)
- ロマノス2世 (963年没)
- ハリル・クート (1957年没)