伝記
スヴェン・オロフ・ヨアキム・パルメは、1927年1月30日、ストックホルムに生まれたスウェーデンの政治家である。ストックホルム大学を卒業したのち、アメリカに渡って、ケニオン大学で法学を学んだ。1949年にスウェーデン社会民主労働党に入党し、当時の首相ターゲ・エルランデルの個人秘書を務めた。委員長を務めた時期には、ベトナムの平和回復運動の先頭に立った。1957年に上院議員に初当選し、1963年にエルランデルのもとで無任所相に就任して、1965年に運輸通信相、1967年に教育相を歴任した。1969年、エルランデルが高齢を理由に引退し、その後を受けて42歳で、社会民主労働党議長と首相に就任した。
1976年の総選挙では、原子力の導入が争点となり、反対を掲げる中央党・穏健党・自由党の3党によるブルジョワ・ブロックに大敗し、社会民主労働党は44年ぶりに下野した。1979年の総選挙では善戦したが、政権の奪還には失敗した。1982年の総選挙で、ブルジョワ・ブロックの失政を突いて快勝し、政権に復帰して、首相に再就任した。カリスマ的な指導者として登場したが、内政では、大企業の国営化計画や原子力の導入など、物議を醸した政策を進めようとしたため、国内の評価は芳しくない。しかし外交政策では、第三世界の問題や、1981年に組織された国連の軍縮委員会、いわゆるパルメ委員会で委員長として主体性を発揮し、高く評価されている。
ベトナム戦争へのアメリカの介入を強く批判し、大量の兵役忌避者や脱走兵を受け入れた。1968年のプラハの春に対するソ連の武力弾圧や、南アフリカのアパルトヘイト、スペインのフランコ政権、チェコスロバキアのフサーク政権の独裁を辛辣に批判し続け、反核運動にも力を尽くした。平和主義と共産主義を明確に分けて、共産主義は独裁体制になりうるため、スウェーデンの政治には合わないと否定的だったが、資本主義にも懐疑的だった。1981年には、原爆が投下された広島市を訪問し、西側諸国の首脳として初めてキューバを訪れてもいる。アメリカの作家との会談では、大国の政治システムは小国にとって脅威になり得ると語り、時には強い言葉も大切だと述べた。1973年には、スウェーデンの秘密諜報機関IBが、共産主義者などの極左の人物を違法に監視していたことが暴露された(IB事件)。ジャーナリストの調査で、議会も知らない組織があったと分かり、パルメ首相は同年11月、IBと社会民主党との関係を否定した。
1986年2月28日の深夜、ストックホルムの路上で、黒いオーバーを着た男に、拳銃で2発を撃たれて射殺された。妻の目撃証言により、事件後に、スウェーデン生まれの男が容疑者として逮捕された。地方裁判所では終身刑とされたが、控訴審では、妻の証言の信憑性が疑われるとして無罪になった。この男は2004年に頭の怪我で死亡した。KGBが暗殺の情報を事前につかんでいた可能性があると、スウェーデンの新聞が報じたが、KGBは否定した。2006年には、暗殺に使われたと見られる拳銃が、ダーラナ県の湖底で発見された。2020年6月10日、検察は、パルメの左派政策に強く反対していた広告コンサルタントを、暗殺の最重要の容疑者として公表したものの、すでに死亡しているとして、捜査の打ち切りを発表した。
同じ年に亡くなった人物
- ジェリー・コロンナ (1986年没)
- エドムンド・リベロ (1986年没)
- ジャン・ジュネ (1986年没)
- オットー・プレミンジャー (1986年没)
- ロバート・スティーヴンソン (映画監督) (1986年没)
同じ地域に関係する人物
- エルンスト・ファスト (1959年没)
- スヴェン・マルケリウス (1972年没)
- Prince Oscar Bernadotte (1953年没)
- クォーソン (2004年没)
- アルヴァル・グルストランド (1930年没)