HISTORICAL PERSON · 1986年没

ヨーゼフ・ボイス

パフォーマンスや彫刻、インスタレーションで知られるドイツの現代美術家。脂肪やフェルトなど独特の素材を用い、「社会彫刻」の概念を唱えた。

生涯
1986年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ノルトライン=ヴェストファーレン州 / デュッセルドルフ)
出生地
ドイツ連邦共和国(クレーフェルト)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ノルトライン=ヴェストファーレン州)

伝記

ヨーゼフ・ボイスは、1921年5月12日、ドイツ北西部のクレーフェルトに生まれ、オランダ国境に近い田園の街クレーヴェで育った現代美術家である。彫刻家、パフォーマンス・アーティスト、教育者、政治活動家でもあった。子供のころは動物や植物に興味を持ち、鹿やウサギ、羊の群れと接した。チンギス・ハンの伝説や、白鳥伝説で知られるシュヴァーネンブルクにも影響を受け、こうした伝説や動物たちは、後の作品にしばしば登場する。医学の道に進もうと考えていた。1936年ごろ、ヒトラー・ユーゲントに加入し、のちに「誰もが教会に行くように、当時は誰もがヒトラー・ユーゲントに行った」と語っている。このころ、焚書の対象となった書物の中の、彫刻家レームブルックの作品図版に強い衝撃を受け、生涯その彫刻を尊敬した。

第二次世界大戦が始まると、1940年にドイツ空軍に志願し、急降下爆撃機に無線オペレーターとして搭乗して、東部戦線で戦った。1944年5月16日、クリミア半島上空でソ連軍に撃墜され、ステップに墜落して軽傷を負った。数日後、ドイツ軍の野戦病院に収容され、2週間の手当てを受けた。ボイスは後に、遊牧民のタタール人に助けられ、体温が下がらないよう脂肪を塗られて、フェルトにくるまれたと、様々に語った。この体験が個人的な転回点になったとして、脂肪やフェルトを使う作品を数多く作った。ただし、タタール人による救助の確証はなく、自分と遊牧民や素材とを結びつけるための個人的な神話作りだと見る研究者もいる。負傷から復帰後は、西部戦線で降下猟兵として戦い、鉄十字章などを受けた。戦争末期にイギリス軍の捕虜となり、1945年8月にクレーヴェの両親の家に戻った。

クレーヴェで傷を癒しながら、シュタイナーの人智学を研究し、水彩画やドローイングを描いた。1947年にデュッセルドルフに移り、芸術アカデミーで学んだ。1961年に同アカデミーの彫刻科の教授になると、授業でパフォーマンスを開始し、自分のクラスは入りたい者すべてに開かれるべきだと主張して、定員のため入れなかった学生も受け入れた。そのため、アカデミー当局と衝突し、1972年に教授職を解雇された。学生の抗議を味方につけて訴訟に入り、1978年に勝訴したが、教授には戻れなかった。かつての教室は使え、そこを自ら主宰する自由国際大学のオフィスとした。彼の門下から、ゲルハルト・リヒター、ジグマー・ポルケ、アンゼルム・キーファーら、ドイツ美術を支える多くの美術家が現れた。

1962年に短期間フルクサスのメンバーとなり、ナム・ジュン・パイクらと親交を持った。この関わりが、ボイスの制作をパフォーマンスアートへと導いた。白いシャツにジーンズ、フィッシング・ベストとフェルトハットという姿は、トレードマークになった。蜜蜂が熱によって蜜蝋から幾何学的な巣を作る話から、独自の熱理論と造形理論を築き、脂肪やフェルト、蜜蝋など、彫刻の素材にはなりそうもないものを用いた。1974年のニューヨークでは、空港から救急車で画廊に運ばれ、一週間、コヨーテとともにこもった。彼は「社会彫刻」という概念を編み出し、芸術の概念を教育や社会変革、政治活動にまで広げ、「人間は誰でも芸術家である」と説いた。緑の党の結党にも関わり、その活動はドイツ国内で賛否両論となった。1979年にグッゲンハイム美術館で大規模な回顧展が開かれ、1982年のドクメンタ7では、カッセルに7000本のオークの木を植える計画を始めた。1986年1月23日に没した。

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