HISTORICAL PERSON · 1986年没

ヘンリー・ムーア

大理石やブロンズの大きな抽象彫刻で知られる英国の彫刻家。英国にモダニズム美術を紹介し、英国美術の国際化に貢献した。

生涯
1986年没
死亡地
イギリス連邦(ハートフォードシャー / マッチ・ハドハム)
出生地
イギリス連邦(キャッスルフォード)
出典
世界地図
イギリス連邦(ハートフォードシャー)

伝記

ヘンリー・スペンサー・ムーアは、1898年7月30日にイギリスのウェスト・ヨークシャーのカッスルフォードで生まれた、20世紀のイギリスを代表する彫刻家である。レイモンド・スペンサー・ムーアとメアリー・ベイカーの8人の子供の7人目で、父はウェルデール炭坑の下級のマネージャーから鉱山技師になった人物だった。音楽や文学に関心を持っていたが独学であったため、子供たちには公的な教育を受けさせようと腐心した。ムーアはわずか11歳のとき、中学校で粘土や木による造形を美術教師に褒められたのをきっかけに、彫刻家になることを決心した。ただ、両親は彫刻を手工業的な労働とみなして認めなかった。1917年、18歳で第一次世界大戦に志願兵として従軍し、所属するライフル部隊で最も若かった。のちの戦闘で毒ガスにより負傷したが、回復は早く、戦争の残りの期間は体育教官として過ごした。戦後、退役軍人の手当を受けて、リーズ芸術学校の彫刻の最初の生徒となった。学校は彼のために、彫刻のアトリエを作らなければならなかった。

リーズでバーバラ・ヘップワースと出会い、長年の友となった。1921年には、ロンドンの王立芸術大学で学ぶ奨学金を得た。ロンドンで過ごす間、博物館で民俗学の資料を集め、原始的な美術や彫刻の知識を蓄えていった。ブランクーシやエプスタインらの影響もあって、素材に直接彫る直彫りのスタイルを開拓し、古典的な考え方を次第に不快に感じるようになった。そのため、現代風の方法を評価しない学校の指導教官と争うこともあった。ロンドンに戻るとすぐに王立芸術大学の教員となり、7年間教えた。1929年7月に、絵の学生イリーナと結婚し、まもなくハムステッドに移り住んだ。ここは前衛的な芸術家たちが集まる場所で、ヘップワースとそのパートナーのベン・ニコルソン、ナウム・ガボ、美術評論家ハーバート・リードらも住み、アイデアの活発な交流があった。1930年代の初めにはチェルシー芸術学校の彫刻学科の責任者となり、1933年にはポール・ナッシュとともにグループ「ユニット・ワン」に入った。

第二次世界大戦が始まると、チェルシー芸術学校は疎開し、ムーアは教職を辞した。戦争中は戦争画家に任じられ、空襲を避けてロンドンの地下鉄や防空壕で寝泊まりする人々の絵を、力強くたくさん描いた。この成果は、彼の国際的な評判、とくにアメリカでの評判を高めた。ハムステッドの家は爆撃で壊され、夫妻はハートフォードシャーのマッチ・ハダムの農家に移った。そこは最後の作業場、安住の地となり、その後に大きな富を得てからも、広いところへ引っ越したり、増築したりしなかった。1946年3月7日に娘メアリーが生まれ、同じ年、ニューヨーク近代美術館での回顧展のため、初めてアメリカを訪れた。1948年にはヴェネツィア・ビエンナーレで国際彫刻賞を受賞した。

穴が貫通する横たわる像が特徴で、題材は「母と子」や「横たわる像」など、抽象化された女性の体がほとんどだった。初めはオルメカやマヤなど、メキシコの古代文明の石像から大きな影響を受けた。戦後は作品が記念碑的な規模になり、助手を雇って制作するようになった。1950年にスティーヴニッジの中学校のために作った「家族」は、最初の大きな公共のブロンズ像である。1957年のパリのユネスコ本部をはじめ、重要な依頼が増え、1967年にはシカゴ大学に「核エネルギー」を設置した。1968年にエラスムス賞を受賞した。質素な生活を死ぬまで送り、その富のほぼすべてをヘンリー・ムーア財団に寄付した。1986年8月31日に没した。

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