伝記
フアナは、1479年11月6日に生まれ、1555年4月12日に亡くなったカスティーリャ女王である。カトリック両王の次女で、ブルゴーニュ公フィリップの妃となった。「狂女フアナ」の異名でも知られ、芸術作品の題材にもなっている。約40年の長期にわたり幽閉されたが、公文書には女王フアナと息子カルロス1世の二つのサインが添えられ、名目上の共同統治者であり続けた。
少女時代のフアナは内気で、一人で過ごすことと読書を好み、多くの言語を習得した。非常に信仰深く育つ一方で、政治にはまったく関心を示さず、母イサベル女王を落胆させたという。第一次イタリア戦争での対仏同盟のため、父フェルナンドの側からローマ王マクシミリアンに二重結婚の働きかけがあり、1495年11月に約束が成立した。1496年10月20日、マクシミリアンの長男フィリップと結婚し、翌年には兄フアンがフィリップの妹マルグリットと結婚した。ネーデルラントへは2万2000人の従者と130隻の船団を伴って渡った。到着した一行を夫は出迎えず、フアナは落胆したが、対面すると金髪碧眼の姿に惹かれ、二人は結婚当初、情熱的に愛し合った。しかし真面目な性格のフアナは夫の不実を許せず、人前でも激昂することがあり、フィリップの心は離れ、フアナの精神状態も次第に不安定になっていったとされる。
1497年に兄フアンが夭折し、1498年には姉イサベルが、1500年にはその子ミゲルが相次いで亡くなったため、フアナがカスティーリャの王位継承者となった。1501年11月に夫とカスティーリャへ渡ると、フィリップは両親に、フアナが精神異常をきたしていると触れ回って自身の王位継承を要求した。しかし乾いた土地と謹厳な人々を嫌い、翌年には臨月の妻を残してネーデルラントへ帰った。フアナは衝撃を受けて病状が悪化し、子どもたちの多くは兄嫁マルグリットや父フェルナンドらに育てられた。1504年11月にイサベル1世が没すると、遺言の内容をめぐってフィリップは激怒し、フアナを脅したり愛情を装って懐柔しようとしたが、フアナは頑なに退けた。1506年に夫妻は再びカスティーリャに渡り、途中で暴風のためイングランドに漂着してヘンリー7世の歓待を受けた。到着後、フアナはカスティーリャ女王に即位した。夫は共同統治を主張したが、議会では王の配偶者としか認められなかった。
1506年9月25日、フィリップはブルゴスで球技をした直後に飲んだ冷水にあたって急死した。衝撃を受けたフアナは完全に正気を失い、夫の埋葬を許さず、棺を馬車に乗せて数年間カスティーリャ国内をさまよい続けた。1508年、フアナは父王によってトルデシリャスの城館に幽閉され、「狂女」と呼ばれた。1516年に父が死去すると、長男カルロスがカスティーリャ=レオンやアラゴンなどを統合したスペイン王カルロス1世として政務を代行した。1520年のコムネロスの反乱では、反乱者たちがフアナの承認を得ようとしたが、フアナは政治に関心を示さず、反乱は国王軍の勝利で終わった。フアナは退位を拒み、最期まで「我、女王」と署名した。1555年4月12日に亡くなり、遺体はグラナダの王室礼拝堂に葬られた。母の死に強い打撃を受けたカルロス1世は、同年10月に息子フェリペ2世へ譲位し、隠棲に入った。
同じ年に亡くなった人物
- Oronce Fine (1555年没)
- Bartholomaeus Bruyn the Elder (1555年没)
- ユリウス3世 (ローマ教皇) (1555年没)
- エンリケ2世 (ナバラ王) (1555年没)
- スティーブン・ガーディナー (聖職者) (1555年没)
同じ地域に関係する人物
- レケスウィント (672年没)
- フランシスコ・デ・サンドバル・イ・ロハス (1625年没)
- レオノール・デ・アルブルケルケ (1435年没)
- マリア・フォン・エスターライヒ (1558年没)
- ゴメス・ペレイラ (1558年没)