伝記
ジャック・アンクティルは、1934年1月8日にフランス北西部ノルマンディーのルーアン郊外で生まれた自転車のロードレース選手である。ツール・ド・フランスで、史上初めて5回の総合優勝(1957年と1961年から1964年)を成し遂げた。父エルネストの祖父はプロイセンの兵士で、普仏戦争で亡くなったという。父は11歳で一家の長となり、1929年にマリーと結婚した。母は2歳で孤児となって、修道女たちに育てられた人で、ジャックには弟のフィリップがいた。4歳のとき、父から最初の自転車を贈られた。7歳のとき、父は建築の仕事を見つけられず、一家はイチゴ農家に転じた。そこで学校に通い、特に数学の成績が良かった。父は酒が過ぎると暴力的になり、母は結局パリのアパートに移って、息子たちを父のもとに残した。11歳で二台目の自転車が小さくなると、父に買う余裕がなく、イチゴ畑の働き手の一人に代わって働いた金で、自分で自転車を買った。
14歳のころ、ルーアン南部の技術学校で金属工になるために学び、そこで、週末にアマチュアのレースに出るモーリス・ディュロワと知り合った。彼を通じて自転車競技に入り、1950年の夏の終わりに、地元のクラブに加わった。指導者は、アンクティルの才能を認め、練習用とレース用の2台の自転車と、タイヤの無償供給、成績に応じた賞金を提供した。1951年4月に最初のレースに出て、4戦目の5月3日に初勝利を挙げ、その年に合計8勝した。1952年の2シーズン目には、ジュニアからシニアに上がり、11勝を加えた。地方選手権の最中、相手の戦術に苛立って棄権しかけたが、指導者に励まされ、靴の留め具をほどくふりをして集団から遅れ、相手が棄権すると考えたところで後方から攻撃し、5分差を詰めて優勝した。フランスのアマチュア選手権に勝ち、ヘルシンキ・オリンピックの代表に選ばれたが、ロードレースは12位に終わった。
1957年に初めてツール・ド・フランスに出場し、4つの区間優勝を挙げて総合優勝に輝いた。1958年は気管支肺炎を患い、喀血して途中棄権した。1959年は、チームメートのロジェ・リヴィエールとトラブルを起こして、レースに集中できず、総合3位に終わった。1960年はジロ・デ・イタリアに参加したので、ツールには出なかった。1961年から1964年は、ツール史上初めて4連覇を達成した。1961年のツールの前に、第1ステージで黄色いジャージを着て、最後までそれを着続けると宣言し、その通りにやってのけた。山岳では最小限のタイム差でゴールし、個人タイムトライアルで圧倒的な差をつけて勝つという、現代の長期のレースでの勝ち方は、彼から始まったともいわれる。空気抵抗の少ないフォームで、タイムトライアルを得意としたため、「メートルジャック」と呼ばれた。
ジロ・デ・イタリアでも1960年と1964年に総合優勝し、1963年にはブエルタ・ア・エスパーニャでも総合優勝した。三大ツールで合計8勝は、引退時の記録であった。1965年は、勝ち方をめぐってマスコミやフランス国民から非難され、自転車に乗ることさえ苦痛だったという。1966年は序盤に優勝を狙える走りを見せたが、風邪をこじらせて気管支炎となり、1958年の経験から棄権した。自転車を降りたとき、カメラのフラッシュの中でくしを取り出し、髪をとかしたと伝えられる。結婚していたが、実子はいなかった。1987年11月18日に胃癌で死去した。
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