HISTORICAL PERSON · 1987年没

ヤッシャ・ハイフェッツ

「ヴァイオリニストの王」と称された20世紀を代表する名手。3歳で始め、7歳でメンデルスゾーンの協奏曲を演奏して神童と呼ばれた。

生涯
1987年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / ロサンゼルス)
出生地
リトアニア共和国(ヴィルニュス)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

ヤッシャ・ハイフェッツは、1901年2月2日、ロシア帝国領のヴィリナ(現在のリトアニアのヴィリニュス)で、ユダヤ人の家庭に生まれたヴァイオリニストである。「ヴァイオリニストの王」と称された。日本ではドイツ語風にハイフェッツと表記するが、もとはヘブライ語で「喜び」を意味する語に由来するイディッシュ語の姓で、ヘイフェツと発音される。父はヴァイオリニストで、幼いころは、父が練習中に音を外すと泣き出したというエピソードが残っている。3歳でヴァイオリンを始め、神童と呼ばれた。5歳で地元の音楽院に入り、レオポルト・アウアーの門下であるイリヤ・マルキンに師事した。7歳でメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を演奏し、デビューした。

1910年には、アウアーに師事するため、サンクトペテルブルク音楽院に入学した。12歳のとき、アルトゥール・ニキシュに招かれてベルリンでデビューし、同じ年にニキシュの指揮でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と演奏した。ベルリンの演奏会には、エフレム・ジンバリストと偶然居合わせたフリッツ・クライスラーもおり、13歳のハイフェッツの演奏を聴いて、「私も君も、これを叩き割ってしまった方がよさそうだ」と言ったと伝わる。10代のうちにヨーロッパの大部分を訪れている。1917年にアメリカに向かう途中で日本に立ち寄り、2週間ほど滞在した。同年、カーネギー・ホールでアメリカデビューを果たした。同じ年にロシア革命が起こったため、そのままアメリカに留まり、1925年に市民権を得た。

帝国劇場に招かれて、1923年9月に初の日本公演が予定されていたが、関東大震災で延期となった。日本へ向かう船の中で東京の壊滅を知ると、船内で演奏を行い、義援金3千円を集めた。同年11月に来日し、帝国ホテルで3日間の公演を行い、翌日には日比谷公園で義捐の野外演奏を行って、再び3千円を集め、「帝都復興の恩人」とも呼ばれた。1931年にも来日し、歌舞伎座などで公演した。第二次世界大戦後の1954年4月の最後の日本公演では、当時13歳の渡辺茂夫を面接して、演奏を激賞し、ジュリアード音楽院への入学を推薦した。

演奏は、小品やソナタから、室内楽、協奏曲まで多岐に渡った。ピアニストのルービンシュタイン、チェリストのフォイアマンと組んだ「100万ドルトリオ」が最も有名である。活動の半ばでフォイアマンが急逝すると、ハイフェッツは室内楽の録音への意欲を失い、ピアティゴルスキーが加わった。リヒャルト・シュトラウスのヴァイオリンソナタを1953年のイスラエル公演で取り上げたときは、反発を呼んで暴漢に襲われ、1970年までイスラエルを訪れなかった。それでもこの曲を演奏し続け、1972年の引退公演でも取り上げた。引退後は、1958年から南カリフォルニア大学で後進の指導にあたった。1987年12月10日、ロサンゼルスで死去した。生前は、表現より技術を優先する「冷たいヴァイオリニスト」との評もあったが、死後は後進に多大な影響を与えた奏者として再評価された。イツァーク・パールマンは、同時代のヴァイオリニストたちが彼の演奏のために苦労し、「ハイフェッツ病」にかかったと語っている。

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