伝記
アンリ2世は、1519年3月31日にサン=ジェルマン=アン=レーで生まれ、1559年7月10日にパリで没した、ヴァロワ朝の第10代フランス国王である。フランソワ1世と、ルイ12世の王女である王妃クロード・ド・フランスの次男で、兄にブルターニュ公フランソワ、姉にルイーズとシャルロット、弟妹にマドレーヌ、シャルル、マルグリットがいた。王位に就く前はオルレアン公、のちにアングレーム公を称した。
幼い頃、ヨーロッパの戦乱に巻き込まれた。1525年、パヴィアの戦いでフランス軍はカール5世側に大敗し、父フランソワ1世は捕虜となってマドリードに幽閉された。1526年にマドリード条約が結ばれると、父の解放の保証として、兄の王太子フランソワとアンリの二人の王子が人質としてスペインへ送られ、およそ四年間を囚われの身で過ごした。スペインへ発つ前、七歳のアンリは母に似て内気な子で、フランスでの最後の時間の慰めは、母の友人だったディアーヌ・ド・ポワチエの腕の中にあったと伝えられる。幽閉の経験は兄弟に深く長い影響を残し、アンリは口数の少ない、暗く沈んだ少年になったという。獄中では騎士道物語『アマディス・デ・ガウラ』を読んだとされる。ディアーヌとの絆はその後も生涯続き、アンリ2世の名は彼女と切り離せないとされる。1536年に兄フランソワがジュ・ド・ポーム(球戯の一種)の後に急死すると、アンリが王太子の称号を得た。
1547年に即位し、7月25日にランスで戴冠した。父の対外積極政策を継承してハプスブルク家と争い、1552年にはザクセン選帝侯モーリッツとシャンボール条約を結んでメス、トゥール、ヴェルダンを占領した。しかし、イタリアにおけるハプスブルク家の優位は動かなかった。国内ではプロテスタントの抑圧を試みたが、ユグノーは次第に大きな少数派となっていった。1559年のカトー・カンブレジ条約でフランスはイタリアへの権利を放棄し、イタリア戦争は終結した。カレーや三司教領は確保したが、ヨーロッパの勢力均衡は変えられなかった。
同条約では、妹マルグリットとサヴォイア公エマヌエーレ・フィリベルト、娘エリザベートとスペイン王フェリペ2世の結婚が定められた。1559年6月30日、その祝宴の一環として行われたモンゴムリ伯との馬上槍試合で、アンリは偶発的に右目を貫かれた。筆頭侍医ジャン・シャプランは名医アンブロワーズ・パレを呼び、サヴォイア公の依頼でフェリペ2世は解剖医ヴェサリウスを派遣し、彼は7月3日に到着した。だが手当ての甲斐なく、アンリは傷がもとで7月10日に没した。パレが死刑囚で試したという逸話は、後世の創作とみられている。この事故は、ノストラダムスら同時代の占星術師の予言が的中した例として語られるが、そう見なせるかは議論の余地がある。
王妃はメディチ家出身のカトリーヌ・ド・メディシスで、二人の間には10人の子女が生まれた。ただしアンリは、カトリーヌが嫁ぐ前から家庭教師であったディアーヌと長く愛人関係にあり、王妃とは不仲であったといわれる。子のうちフランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世の三人が相次いで王位を継ぎ、マルグリットはのちにアンリ4世の妃となった。しかし三人の治世は振るわず、アンリ2世の死後のフランスは、カトリックとプロテスタントの抗争によるユグノー戦争の内戦状態に陥った。
同じ年に亡くなった人物
- アルバル・ヌニェス・カベサ・デ・バカ (1559年)
- ロベール・エティエンヌ (1559年没)
- クリスチャン2世 (デンマーク王) (1559年没)
- クリスチャン3世 (デンマーク王) (1559年没)
- ヴィルヘルム1世 (ナッサウ=ディレンブルク伯) (1559年没)
同じ地域に関係する人物
- レイモン・アロン (1983年没)
- ジャン・ジュネ (1986年没)
- オノレ5世 (モナコ公) (1841年没)
- アルテュール・オネゲル (1955年没)
- アントワーヌ・ビュシー (1882年没)