伝記
ゴルディアヌス2世は、軍人皇帝時代のローマ皇帝である。氏名はマルクス・アントニウス・ゴルディアヌス・センプロニアヌス・ロマヌス・アフリカヌスといい、238年に父のゴルディアヌス1世と共同で皇帝となった。両者が同時に皇帝となったため、区別のために2世と呼ばれる。生年は192年、没年は238年4月ごろとされる。在位は約22日に過ぎず、父より先に死んだため、記録に残る皇帝のなかで最も短い治世だったとされる。
ゴルディアヌス1世の唯一の息子として知られ、父方の祖先はアントニウス家の名から、後期共和政の三頭政治家マルクス・アントニウスのもとでローマ市民権を得たと推測されている。母は哲学者ヘロデス・アッティコスの娘だったともいわれる。一方、信憑性が低いことで知られる『ローマ皇帝群像』はファビア・オレスティラという名を挙げ、アントニヌス・ピウス帝らの子孫だと主張するが、現代の歴史家はこれを偽りとして退けている。母がギリシア人のソフィストで執政官も務めたヘロデス・アッティコスの孫娘だった可能性を示す証拠もある。妹はのちの皇帝ゴルディアヌス3世の母である。
若いころの経歴は、『ローマ皇帝群像』に記されるだけで、史実として確かめられない。ゴルディアヌス父子を懐かしんだ元老院議員たちが、良い面だけを残したためで、信用できるとは限らない。それによれば、エラガバルスの治世に財務官を務め、アレクサンデル・セウェルスの治世に法務官と補充執政官を務めたらしい。237年か238年には、アフリカ属州の総督となった父のもとで副官としてアフリカへ赴いた。
235年初め、アレクサンデル・セウェルスが下ゲルマニアで反乱兵に殺され、首謀者のマクシミヌス・トラクスが、元老院の消極的な態度にもかかわらず軍団に擁立されて皇帝となった。マクシミヌスは不人気で、238年、アフリカの有力者らが皇帝の財務官を殺した後、圧力を受けた父は大規模な反乱に加わらざるをえなくなり、おそらく3月末ごろ皇帝を宣言した。父は高齢だったため、息子が共同皇帝として指名され、同じくアフリカヌスの添え名を受けた。このとき彼は46歳と言われた。マクシミヌスの不人気ゆえに、父子の帝位は元老院と大半の属州から支持された。
しかし、隣のヌミディア属州の総督カペリアヌスは、マクシミヌスの忠実な支持者で、マクシミヌスとの同盟をあらためて結び、この地域に駐屯する唯一の軍団である第3アウグスタ軍団などを率いて、アフリカ属州へ侵攻した。ゴルディアヌス2世は、訓練を受けていない民兵の軍を率いてカルタゴの近くで迎え撃ったが、敗れて戦死した。『ローマ皇帝群像』によれば遺体は見つからなかった。息子の死を聞いた父は自殺した。この最初の反乱は失敗に終わったが、同じ年の終わりには、孫のゴルディアヌス3世が全ローマ世界に皇帝と認められた。ギボンは、22人の公認の妾と6万2千巻の蔵書を持ったと記しているとされる。
彼の死からおよそ30年後にガッリエヌス帝を殺して即位したクラウディウス・ゴティクスには、ゴルディアヌス2世の私生児だという噂もあったようだが、おそらく卑賤の出で、詳しい出自は不明である。
同じ年に亡くなった人物
- デキムス・カエリウス・カルウィヌス・バルビヌス (238年没)
- ユリウス・ポルクス (238年)
- ガイウス・ユリウス・ウェルス・マクシムス (238年没)
- ゴルディアヌス1世 (238年没)
- マクシミヌス・トラクス (238年没)
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