伝記
ガイウス・ユリウス・ウェルス・マクシムスは、軍人皇帝時代のローマ帝国の皇帝マクシミヌス・トラクスの息子で、236年から238年まで父の共同皇帝の地位にあった人物である。217年または220年ごろに生まれ、238年5月10日に没した。ガイウス・ユリウス・ウェルス・マクシミヌスや小マクシミヌスとも称される。
母は父の妻カエキリア・パウリナで、マクシムスは夫妻のただ一人の息子とされ、ゴート人の出自だった可能性もあるという。235年にアレクサンデル・セウェルスが殺され、マクシミヌスが後継の皇帝に即位すると、翌236年にマクシムスは共同皇帝となり、プリンケプス・ユウェントゥティス(青年の第一人者)の称号を得た。共同皇帝とはいっても実際の権力はほとんどなかったと伝えられる。また、自らをゲルマニクスと称したが軍事の才には恵まれず、近衛兵や軍団の指揮官のあいだでは不人気になったとされる。
古代の歴史家はマクシムスについてほとんど何も伝えていない。『ローマ皇帝群像』は、どこでも好色な女たちが恋をするほどの美貌の持ち主で、よく教育を受けていたものの、父が望む以上に安楽な暮らしを好んだと記す。父は誇らしさのあまり、宝石をちりばめた金銀の胸甲、盾、剣、兜を着せて息子を街中で行進させ、その美しさを皆に見せたともいう。アレクサンデル・セウェルスが彼を深く気に入り、父を称える晩餐に招いた際、礼服を持たないマクシムスに服を貸し与えたという話もある。ただし、歴史家アンドレ・シャスターニョルは、これらの性格描写や逸話を純然たる創作とみなしている。アレクサンデルが妹テオクリアを彼に嫁がせようとしたが、野蛮人を義父にするのを妹が好まないと考えてやめたという話も、同じく創作とされる。
238年3月、マクシミヌスの統治に不満を抱いた元老院の後押しを受けて、アフリカ属州総督ゴルディアヌスが反旗を翻した。パンノニアなどへ遠征中の父に随行していたマクシムスは、父とともにゴルディアヌス討伐のためローマへ進軍した。4月12日にゴルディアヌス父子は戦死したが、元老院はプピエヌスとバルビヌスを皇帝に擁立し、なおもマクシミヌスに対抗した。マクシミヌス軍はさらに進んでアクイレイアを包囲したが、補給の困難、病、犠牲の多い無益な包囲、そして父の強権的な振る舞いのために兵士たちの不満が高まった。5月10日、陣中で近衛兵らが反乱を起こし、天幕にいた父子を殺害した。二人の首は槍に掲げられてアクイレイアの人々に示され、のちローマへ送られたともいう。遺体はティベリス川に投げ捨てられた。
ローマでは元老院が父子の記録抹消刑を命じ、遺体は損なわれて犬に投げ与えられ、像や胸像は倒された。ローマで236年から238年ごろに鋳造された貨幣には、副帝マクシムスの胸像が刻まれている。この出来事は六皇帝の年に起きた。
同じ年に亡くなった人物
- ゴルディアヌス2世 (238年没)
- デキムス・カエリウス・カルウィヌス・バルビヌス (238年没)
- ゴルディアヌス1世 (238年没)
- ユリウス・ポルクス (238年)
- マクシミヌス・トラクス (238年没)
同じ地域に関係する人物
- マグヌス・マクシムス (388年没)
- チェーザレ・モーリ (1942年没)
- オッタビオ・ボテッキア (1927年没)
- エリザ・ボナパルト (1820年没)
- タルチシオ・ブルニチ (2021年没)