伝記
フィリップ・メランヒトンは、ドイツの人文主義者、神学者で、ルターの宗教改革を支えたルター派の指導者である。出生名はフィリップ・シュヴァルツェルトといい、1497年2月に、ブレッテンで生まれた。父ゲオルクはプファルツ選帝侯フィリップに仕える武具師、母はバルバラ・ロイターだった。1507年にプフォルツハイムのラテン語学校に送られ、校長ゲオルク・ジムラーからラテン語とギリシア語の詩人やアリストテレスを教わった。大叔父で人文主義者のヨハン・ロイヒリンの影響も受け、人文主義者の習わしにならって、姓の「シュヴァルツェルト」(黒い土の意)を、同じ意味のギリシア語「メランヒトン」に改めるよう勧められた。これはギリシア文化を重んじる人文主義者として育ったことを示している。
1508年、11歳のときに祖父と父が11日のうちに相次いで亡くなり、兄弟とともにプフォルツハイムの祖母エリーザベト・ロイターのもとに引き取られた。翌年にハイデルベルク大学に入り、哲学、修辞学、天文学、占星術を学んで、ギリシア思想の学者として知られ、1509年に学士号を得た。1512年にテュービンゲンで修士号を得て、そこで教えるかたわら神学の勉強を始め、ロイヒリンやエラスムスの影響のもと、真のキリスト教はスコラ神学とは別のものだと確信するようになった。初期の著作に、詩集への寄稿やテレンティウスの校訂、ギリシア語文法書(1518年)がある。
1518年、ルターの求めに応じ、大叔父の推薦でヴィッテンベルク大学に招かれ、21歳の若さでギリシア語教授になった。翌1519年にはライプツィヒ討論を傍聴し、エックの攻撃に対して聖書の権威を根拠に反論した。1520年11月25日、ヴィッテンベルク市長の娘カタリーナ・クラップと結婚し、4人の子をもうけた。ルターに共鳴して宗教改革に参加し、非体系的で直感的なルターに対し、体系的で知性的なメランヒトンは、その思想を体系化する役を担った。人文主義に基づく中等学校や、古典的なコレギウムも開き、ルター派の中等教育と高等教育に貢献した。
1521年に『ロキ・コンムネス』(神学総覧)を著し、信仰によって義とされるとする説を強調した。1524年に郷里へ向かう途中、教皇特使カンペッジョ枢機卿にルターから離れるよう誘われたが、応じなかった。1528年には教会と学校の規則をまとめた文書で、福音主義の救いの教えを示した。1529年にはシュパイアー国会に選帝侯に同行したが、宗教改革を認めさせる望みは果たせず、のちにツヴィングリの聖餐説を「不敬な教義」と呼んだ。1530年のアウクスブルク国会には、福音主義教会の最初の信仰告白『アウクスブルク信仰告白』を起草した。ローマとの対立を緩和しようと、教皇権や煉獄などには触れていない。カトリック側の反論には『弁証』で再反論し、二つの文書はルター派の信仰告白となった。
しかし次第にルターとの違いが表れた。ルターは義認と聖化を動的に結びつけたが、メランヒトンは両者を区別し、義認を罪の赦しと同一視する傾向があった。後年は自由意志をある程度認め、聖餐論ではカルヴァンに近づいたため、ルター派内に論争が起こり、メランヒトンに同調する人々は「フィリップ派」と呼ばれた。1560年4月19日に世を去り、墓はヴィッテンベルクの諸聖人教会の内部、ルターの隣にある。
同じ年に亡くなった人物
- エイミー・ロブサート (1560年)
- メアリ・オブ・ギーズ (1560年没)
- アブドゥッラシード・ハン1世 (1560年没)
- ヤン・ワスキ (1560年)
- バッチョ・バンディネッリ (1560年没)
同じ地域に関係する人物
- ヘルフタのゲルトルード (1302年没)
- アグネス・ヘートヴィヒ・フォン・アンハルト (1616年没)
- ヴィルヘルム・ゲゼニウス (1842年没)
- ハインリヒ3世 (神聖ローマ皇帝) (1056年没)
- ウルリッヒ・ミューエ (2007年没)