伝記
クルト・ゲオルク・キージンガーは、1904年4月6日、ドイツ帝国ヴュルテンベルク王国のエービンゲン(現在のバーデン=ヴュルテンベルク州アルプシュタット)に生まれた西ドイツの政治家である。父は地元の繊維関係の会社の商業事務員で、プロテスタントだったが、彼が1歳のときに亡くなった母がカトリックだったため、カトリックの洗礼を受けた。母方の祖母は彼に強い影響を与えて励ましたが、父は彼の出世に無関心だった。両方の宗派の影響を受けた彼は、のちに自らを「プロテスタント・カトリック」と称した。少年時代は詩に傾倒し、詩人になることを夢見ていた。1919年9月にヴュルテンベルクの師範学校に進み、在学中は工場でも働いて生計を立てた。その後、テュービンゲン大学とベルリン大学で法律を学び、1930年に第一次、1933年に第二次の法律国家試験に合格して、ベルリンで弁護士として働き、大学の法律講師も兼ねた。1932年に結婚し、二人の子に恵まれた。
1933年2月、ナチ党の権力掌握に合わせて入党したが、ほとんど活動しなかった。動機は、本人によれば、党内のキリスト教の穏健派と接触し、急進路線を阻止するためだったという。1940年に軍に召集されたが、武器を手に取るのを避けるため、同年から外務省ラジオ宣伝部に勤務し、1943年から1945年は副局長として、宣伝省との連絡係を務めた。1945年4月末にアメリカ軍に政治犯として拘留され、1946年に釈放されて、ヴュルツブルク大学で法学部の教壇に立った。1947年の非ナチス化法廷では、消極的な同調者と判断されて無罪となった。この経歴は、のちのちまで批判された。1946年にキリスト教民主同盟に入党し、1949年の第1回連邦議会選挙に立候補して当選した。1954年から1959年は連邦議会の外交委員長を務めた。
閣僚の席を与えられないことに不満を持ち、州政府への転身を決めて、1958年12月17日にバーデン=ヴュルテンベルク州首相に就任し、1966年12月1日まで務めた。コンスタンツ大学とウルム大学を新設し、州内の完全雇用を達成し、ボーデン湖の水質問題にも取り組んだ。西ドイツでは、エアハルト政権の時代に経済成長が停滞し、極右政党が州議会選挙で議席を得て、社会不安が増していた。1966年にエアハルト内閣が崩壊すると、党内の決選投票に勝って後任となり、社会民主党と交渉して、大連立政権を樹立した。在任は1966年12月1日から1969年10月21日までである。首相指名選挙では、連邦議会の全議席の3分の2以上の支持を得て、これは戦後の首相指名の最高記録だった。
しかし、ナチスで働いた経歴を持つ首相に拒否反応は大きく、作家のハインリヒ・ベルやギュンター・グラスから批判された。1968年11月7日、ベルリンのキリスト教民主同盟の党大会で、ナチ・ハンターのベアテ・クラルスフェルトに「このナチ」と罵られ、平手打ちを受けた。彼は死ぬまでこの事件への論評を拒んだ。ヴィリー・ブラントを副首相兼外相に据えて東方外交を進め、チェコスロバキア、ルーマニア、ユーゴスラビアと外交関係を樹立した。1968年5月末には非常事態法を成立させ、1967年6月には経済安定成長法を制定した。1969年の総選挙で社会民主党が躍進して、ブラントが首相となり、戦後続いたキリスト教民主・社会同盟の政権は中断した。1980年に議員を引退し、「銀の舌をもつ首長」と称された雄弁家だった。1988年3月9日、テュービンゲン近郊の自宅で死去した。
同じ年に亡くなった人物
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- シューアル・ライト (1988年没)
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- レナート・サルヴァトーリ (1988年没)
- ムハンマド・ジア=ウル=ハク (1988年没)
同じ地域に関係する人物
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- ヴォルフガング・プライス (2002年没)
- マルティン・ヴァルザー (2023年没)
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