伝記
アルダシール1世は、サーサーン朝の初代シャーハーン・シャーである。在位は226年から240年で、生前に子へ譲位したとされる。サーサーンの孫にあたり、後世のペルシア語文献では「パーパグの子アルダシール」と呼ばれた。生年は180年、没年は241年または242年とされるが、確かなことは分かっていない。名は「正しさと公正に基づいて統治する者」の意とされ、古代のアルタクセルクセスに通じる。通常は初代君主として扱われるが、サーサーン朝自身は、パーパグのイスタフルでの挙兵を王朝の始まりと捉え、開祖をパーパグと考えていた可能性が高いという。
父パーパグは、アルサケス朝パルティアに服属するペルシス王国の君主で、その領土はファールス地方からケルマーン地方にまたがり、パルティア従属下の勢力としては最大の規模を誇った。タバリーによると、アルダシールは7歳のとき要塞ダーラーブギルドの領主のもとに送られ、その死後に後を継いで要塞の司令官となった。その後パーパグが地方の王ゴチフルを倒して息子シャープフルを据えたが、父子が相次いで急死し、アルダシールがファールスの支配者となったと伝えられる。一方、王家の記録によれば、アルダシールは兄の任命を認めずに、兄と敵対者を排除し、自らと父の顔を刻んだ貨幣を鋳造したとされる。彼はイスタフルのアナーヒター神殿の高位神官でもあった。
勢力を伸ばしたアルダシールは、周辺のケルマーン、イスファハーン方面にまで支配を広げ、本拠を南方のアルダシール・ファッラフに移した。アルサケス朝のアルタバヌス4世が他地域の反乱で転戦している間に力を蓄え、224年4月28日、ホルミズダガンの平原でその軍を破って王を敗死させ、首都クテシフォンを陥落させた。その後もパルティアの西部を次々と併呑し、クルド人とも戦った。226年、「エーラーンの諸王の王」という君主号を名乗り、祖父の名からサーサーン朝と名づけた。これによって約400年続いたアルサケス朝が終わった。西方では226年から233年までローマ帝国と対立し、アレクサンデル・セウェルスに敗れて拡張が止まったが、東部や北部ではシスターン、ホラーサーン、バクトラ、ホラズムなどを支配下に置き、クシャーンにも宗主権を認めさせた。
彼は王権の思想の形成にも大きな役割を果たした。自らをマズダーの崇拝者で神々の子孫とし、ゾロアスター教で王に帰される神聖な王の栄光を備えた者と示そうとした。神話上のイランの王の子孫を称し、アケメネス朝の継承者であることも主張したという。勝利を記念して、フィルーザーバード、ナクシェ・ラジャブ、ナクシェ・ロスタムに岩壁の浮彫を刻ませた。ナクシェ・ロスタムでは、騎馬のアルダシールとアフラ・マズダーが向かい合い、馬の蹄の下にアルタバヌスとアフリマンの死体が描かれている。碑文で「イラン」と呼ばれた土地を統べる自らの支配が、神に定められたものだと示したかったと読み取れる。
国家組織にも特色があった。歴史学者クリステンセンは、パルティアとの決定的な違いとして、政治的な中央集権とゾロアスター教の国家的な後援を挙げる。国土を細かい州・郡に分けて中央から統制しやすくし、影響力の強い貴族の領地は削られた。かつての封爵層の貴族は、小領主として軍事奉仕義務を負う下級貴族となった。アルダシールの後は、子のシャープール1世が継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- 諸葛瑾 (241年没)
同じ地域に関係する人物
- ルトフ・アリー・ハーン (1794年没)
- シャープール2世 (379年没)
- Mohammad Ali Khan (1779年没)
- ナヴィド・アフカリ (2020年没)
- マルドゥク・アプラ・イディナ1世 (紀元前1200)