伝記
満寵は、後漢末期から三国時代の魏の武将・政治家である。字は伯寧。兗州山陽郡昌邑県の人で、242年に没した。身長は8尺(約190cm)あったと伝えられる。若くして郡の役人(督郵)となり、郡内で私兵を率いて乱暴していた李朔は、二度と乱暴しなくなったという。高平県令を代行した際には、督郵の張苞の横暴を見て逮捕し、取り調べたうえで罪を明らかにし、役目を果たすと官職を捨てて帰郷したと伝えられる。
のちに曹操に仕え、許県の県令となった。曹洪配下の者が曹氏の権勢を笠に着て法を犯したとき、満寵はこれを逮捕した。曹洪が曹操に働きかけたことを知ると、曹操が赦免しようとしているのだと考えて直ちに処刑し、曹操から大いに賞賛された。また、楊彪が逮捕された際には、荀彧や孔融から手心を加えるよう頼まれたが、満寵は規則どおりに訊問した。そのうえで曹操に「処罰するなら罪を明確にすべきである」と直言し、曹操は楊彪を赦免した。誰に対しても公明正大で法に厳しかったが、傲慢ではなかったので疎まれることはなかったという。
官渡の戦いのころには、袁紹の郷里である汝南の太守を務め、袁氏に与する勢力を滅ぼして、人々を農耕に従事させた。曹操の荊州征伐に従い、帰還後は奮威将軍を兼ねて当陽県に駐屯した。孫権が国境に攻め入ると汝南太守に戻され、関内侯となった。のち曹仁の参謀として樊城に駐屯し、219年に関羽が攻めてきたときは、救援の于禁ら七軍が洪水で壊滅し、樊城も水没して崩れかけた。降伏を勧める者がいたが、満寵は「山の水は引くのが速く、この状況は長くは続かない」と反対し、曹仁もこれを良しとした。徐晃の援軍で関羽が撃退されると、満寵は安昌亭侯に進封された。曹丕の時代には揚武将軍となり、三方面からの呉攻めに従軍した。江陵での戦いで功を挙げて伏波将軍となり、新野に駐屯して仮節鉞を与えられた。224年には前将軍に昇進している。
曹叡が即位すると昌邑侯となり、曹休の死後は都督揚州諸軍事となった。揚州へ転任する際、汝南の民や兵士の多くが満寵を慕って勝手に付いてきたため問題になり、詔勅で親衛兵千人の同行が許され、他は不問とされた。230年に征東将軍となり、孫権が撤退する気配を見せて撤退の詔勅が下ったときも、偽装と読んで備えを怠らず、10日ほどして再び来襲した孫権は合肥を攻められずに撤退した。231年、呉の孫布が投降を申し入れると、満寵は偽りと見て、出迎えを望む王淩に自重を求めた。しかし王淩は少数の手勢を送り、孫布の夜襲で兵の多くを失った。満寵と王淩は以前から対立しており、満寵が召喚されたのも王淩の側の者が老いて耄碌していると讒言したためだったが、曹叡は満寵が壮健なことを確かめた。
233年には、呉水軍の機動力が生きやすい合肥城の立地の欠点を指摘し、北西30里の地に新城を築くよう上表した。蔣済は弱気な作戦だと反対したが、重ねて主張し、尚書の趙咨の支持も得て築城が認められた。同年、孫権が上陸すると見て伏兵6千を用意し、果たして上陸した呉軍の百人の首を斬った。234年に孫権が大軍を称して合肥新城に攻め寄せると、満寵は救援に赴き、義勇兵を募って油を用いた火攻めで攻城兵器を焼き、孫権の甥の孫泰を射殺した。孫権は魏の中央軍が迫ると撤退した。238年3月、老年のため中央に召されて太尉となったが、家に余財がなく、詔勅で物資が下賜された。242年3月に死去し、景侯の諡号を贈られた。