伝記
コンラート・ゲスナーは、1516年3月26日、毛皮工職人の子としてスイスのチューリッヒに生まれた。この町は宗教改革の指導者ツヴィングリが活動した都市で、幼いころからその影響を受け、生涯プロテスタントの信仰を保った。1531年に父を亡くして金に困ったが、恩師のオズヴァルト・ミュコニウスやハインリヒ・ブリンガーの援助を受け、1532年から翌年にかけてストラスブール大学やブールジュ大学で学んだ。
1535年、プロテスタントへの迫害を逃れてチューリッヒに帰郷し、不幸な結婚をしたという。妻は病気がちで、子供には恵まれなかったとだけ伝えられている。1536年にミュコニウスから再び援助を受けてバーゼルへ留学し、1537年にはローザンヌのアカデミーでギリシア語教授に就任して、自然科学、とりわけ植物学の研究に没頭する時間を得た。1540年に教授を辞し、名高いモンペリエ大学医学部で学んで、1541年にバーゼルで医学博士号を取得した。その後はチューリッヒ大学で哲学、数学、自然科学、倫理学を講義しつつ研究生活に入り、数回の外遊と故郷での植生調査を除いて、終生そこで過ごした。
存命中は植物学者として著名で、ラテン語・ギリシア語・ドイツ語・フランス語による『植物名目録』(1542年)などを刊行した。自ら約1,500の図を描いた本格的な『植物誌』は、没後かなり経った1751年から1771年に刊行された。植物名を古典語と当時の言語で比較するうち、文献学や言語学にも関心を広げ、1545年に『ギリシア・ラテン語辞典』を編み、1555年の『ミトリダテス』では55種の言語間の関係を研究して、比較言語学的な言語論を展開した。
1545年に上梓した『世界書誌』は、約3,000名の著者によるギリシア語・ラテン語・ヘブライ語の文献約12,000書を収めた大冊である。ビブリオテカという語を初めて書誌の意味で用いた点、序文で調査箇所と参考文献を示した点、著者を編年順ではなく名前順に並べた点、刊本の出版事項や判型、葉数まで記述した点で画期的とされ、近代書誌学の原点とされ、著者は書誌学の父と呼ばれる。1548年には、収録書を体系的に分類した続巻『萬有総覧』を発行し、学問全体を21の部門に分類した。『動物誌』全5巻は1551年から1558年にチューリッヒで刊行され、動物名をアルファベット順に並べた約4,500ページの大著で、近代動物学の嚆矢とされる。
科学に関心のない者には、愛山家としても知られた。登山の多くは純粋に楽しむものであったといい、1551年にはピラトゥス山のグネプフシュタインに登頂し、1555年に登山記を発表した。屋外での筆記やデッサンには、細い木の筒の先に黒鉛を詰めたものを使い、鉛筆の原型といわれる。1564年にペストが流行すると、市医として前線で治療にあたったが、自身も1565年にペストに倒れ、12月13日に世を去り、チューリッヒの大聖堂の回廊に葬られた。植物学にも長けたことから、イワタバコ科の学名はゲスナーにちなむ。1978年発行の50フラン紙幣には肖像が使われた。南方熊楠は「吾れ欲くは日本のゲスネルとならん」と日記に記している。
同じ年に亡くなった人物
- ミコワイ・ラジヴィウ・チャルヌィ (1565年没)
- Pier Paolo Vergerio (1565年)
- 文定王后 (1565年没)
- ベネデット・ヴァルキ (1565年)
- チプリアーノ・デ・ローレ (1565年没)
同じ地域に関係する人物
- Urs Widmer (2014年没)
- ヨゼフ・ミューラー=ブロックマン (1989年没)
- フリードリヒ・アドラー (1960年没)
- エーリヒ・ラインスドルフ (1993年没)
- アマーヌッラー・ハーン (1960年没)