HISTORICAL PERSON · 1989年没

手塚治虫

日本の漫画家、アニメ監督、医師。『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』などのヒット作を発表し、「マンガの神様」と評された。

生涯
1989年没
死亡地
日本(東京都 / 半蔵門病院)
出生地
日本(豊中町)
出典
世界地図
日本(東京都)

伝記

手塚治虫は、1928年11月3日に大阪府豊能郡豊中町(現在の豊中市)で、父の粲と母の文子の長男として生まれた、日本の漫画家、アニメ監督、医師である。本名は手塚治。明治節に生まれたことから「明治」にちなんで「治」と名づけられた。3人兄弟の長男であった。1933年、5歳のときに一家は、1932年に他界した祖父が終の棲み家とした、兵庫県川辺郡小浜村(現在の宝塚市)の邸宅に移り住んだ。当時の宝塚は、小林一三が田園風景の中に開発した新興の住宅地で、宝塚少女歌劇団の本拠地の宝塚大劇場や、宝塚新温泉などが立ち並び、一種の異空間を形作っていた。この人工的な近代都市の風景は、手塚の作品世界の形成に大きな影響を及ぼしたと考えられる。

1935年に池田師範学校附属小学校に入学した。両親が東京出身であったため、近畿方言を話せず、浮いた存在だったが、幼いころから見よう見まねで描いていた漫画が、彼を救うことになる。小学3年生のときに最初の漫画「ピンピン生チャン」を完成させ、5年生のころには長編漫画「支那の夜」を完成させた。仲間内のみならず学校の教師のあいだでも話題になり、以後は教師からも、漫画を描くことを黙認されるようになったという。同級生たちからも一目置かれるようになった。同級生の石原実の影響で昆虫や科学、天文学に興味をもつようになり、友人から借りた図譜で甲虫のオサムシを知り、これにちなんで「手塚治虫」のペンネームを使い始めた。1941年に大阪府立北野中学校に入学した。軍国主義が強まるなかで、漫画を描いているのを教練の教官に見つかって殴られることもあった。1945年3月に北野中学を卒業し、旧制浪速高等学校を受験したが、漫画ばかり描いていたため不合格となった。6月には、勤労奉仕で監視哨をしていたときに大阪大空襲に遭い、頭上に焼夷弾が投下されるも、九死に一生を得た。この体験は、のちに『紙の砦』などの自伝的作品に描かれている。同年7月、大阪帝国大学附属医学専門部の試験を受けて、入学を許可された。

1946年1月1日、4コマ漫画『マアチャンの日記帳』を『少国民新聞』に連載し、これが手塚のデビュー作となった。1947年1月に、酒井七馬が原案を出し、手塚が自由に描いた200ページの描き下ろし長編『新寶島』が出版されると、当時としては異例のベストセラーとなった。映画的な構成とスピーディな物語展開をもつこの作品は、戦後のストーリー漫画の原点とされ、大阪に赤本ブームを引き起こした。1951年3月に医学専門部を卒業し、大阪大学医学部附属病院でインターンを1年務めて、1952年3月に医師国家試験に合格した。自伝には、いまでも本業は医者で、副業が漫画なのだが、誰も認めてくれないと書いている。

1950年に雑誌『漫画少年』で『ジャングル大帝』の連載を始め、1951年には『鉄腕アトム』の前身となる『アトム大使』を連載した。1953年には『リボンの騎士』を連載し、宝塚歌劇やディズニーの影響を受けたこの作品は、少女雑誌の物語漫画の先駆けとなった。1954年には『火の鳥』の連載を始め、これは手塚のライフワークとなった。1963年には、自作をもとに、日本初の30分のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作し、現代につながる日本のテレビアニメ制作に多大な影響を及ぼした。1970年代には『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』などを発表し、晩年にも『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』などの傑作を生んだ。存命中から「マンガの神様」と評され、1989年2月9日に没した。

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