伝記
フェルディナンド・エドラリン・マルコスは、1917年9月11日にアメリカ合衆国の植民地支配下のフィリピンで生まれた政治家で、フィリピンの第10代大統領である。約20年にわたって権力を握ったが、1986年のエドゥサ革命によって打倒された。父は弁護士でイロコス・ノルテ州選出の国会議員、母は教師であり、4人きょうだいの2番目であった。1937年、フィリピン大学法学部の学生だったとき、父と政治的に対立していた下院議員の暗殺事件の容疑で起訴され、同年11月に有罪判決を受けた。ケソン大統領による恩赦を拒み、刑務所で裁判の準備と司法試験の勉強をして過ごし、司法試験にはトップで合格した。翌年、最高裁判所の判決で無罪となった。
1941年12月に日本が真珠湾を攻撃し、翌1942年1月に日本軍がフィリピンに進軍すると、アメリカの支援を受けた軍の師団の情報局員として従軍し、日本軍と対峙したという。後の伝記には、中尉だった彼が敵兵50人を殺害し、捕虜となっても脱出した、という軍功が記されている。しかし、アメリカの公文書館の記録によれば、戦時中の活動はごくわずかか全くなく、日本軍との戦闘も記録されていない。それでも、こうした「抗日ゲリラ活動」の主張は、後の政治的成功の大きな要因となった。1946年から翌年まで、ロハス大統領の補佐官を務め、1949年には下院議員に当選した。選挙のスローガンは「そうすれば私は20年で大統領となります」というものだった。1959年に上院議員となり、1962年から1965年まで上院議長を務めた。1954年にミス・マニラのイメルダと結婚し、3人の子をもうけた。
1965年の大統領選挙では、自由党から国民党に移って立候補した。頭の回転の良さと弁舌を生かし、マスコミから「アジアのケネディ」と称され、大勝した。「コメと道路」を重点政策とし、インフラの整備を進め、アメリカと緊密な同盟関係を築いて、南ベトナムへ軍を派遣した。1969年に再選された。貧富の差は大きく、1970年代に入ると、高いインフレと失業率の増加を招き、農村部では共産党や武装組織の新人民軍が結成され、南部ミンダナオ島では、新規入植者と現地住民の軋轢が生じた。1972年9月21日、これらを共産主義の脅威と警告して、全土に戒厳令を布告し、1935年憲法は停止された。政敵のベニグノ・アキノ上院議員らを含む約200人が拘束され、反政府活動の指導者は拘留されて拷問を受けたり、消息不明になったりした。報道の統制により、マスコミも弾圧された。一方で、戒厳令と夜間外出禁止令の後は、犯罪率が劇的に低下したともされる。
既存の特権階級の権益は没収され、貧しい人に与えられると宣伝されたが、実際にはマルコスの一族と取り巻きが引き継いだとされ、「縁故資本主義」の語まで登場した。1981年1月に、教皇ヨハネ・パウロ2世の訪問を前にして戒厳令を解除したが、反政府活動への治安権力は維持された。同年6月の大統領選挙では、主要野党が選挙をボイコットし、マルコスは91.4パーセントの票を獲得した。海外からの借款が多用され、独裁体制が進むにつれて汚職が蔓延し、経済成長は見られなくなった。1983年8月、アメリカに亡命していたアキノが、帰国時にマニラ国際空港で暗殺され、国内では反マルコスのデモが頻発して、翌年には経済がマイナス成長となった。マルコス自身も腎臓の病気に悩まされ、イメルダ夫人が政務を取り仕切るようになった。1986年のエドゥサ革命で打倒され、亡命先のハワイで、不正行為を認めないまま、1989年9月28日に死去した。
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