伝記
シュガー・レイ・ロビンソンは、1921年5月3日、アメリカ合衆国ジョージア州エイリーの貧しい農家に、ウォーカー・スミス・ジュニアとして生まれたプロボクサーである。ミシガン州デトロイトに移ったが、12歳のときに両親が離婚し、母、姉とともにニューヨークのハーレムに移り住んだ。少年時代はストリートギャングに関わり、頻繁に喧嘩をした。13歳のときに警察署のジムでボクシングを本格的に始めたが、はじめはバスケットボールなどと並行して楽しんでいた。15歳で高校を中退し、ボクシングに専念した。アマチュアの試合に出る際、18歳以上という年齢制限があったため、年上の友人レイ・ロビンソンの会員証を借りて出場した。観戦した記者の「なんとスウィートなボクサーだ」という感嘆に、トレーナーのジョージ・ゲインフォードが「シュガーのようにスウィートだよ」と答えたことから、リング名が生まれたという。
1939年にフェザー級、1940年にライト級でゴールデン・グローブを獲得し、正確な戦績は不明で、85戦85勝とも伝えられるが、少なくとも2敗は確認されている。1940年10月4日、19歳でマディソン・スクエア・ガーデンのライト級4回戦に出て、2回TKO勝ちでプロデビューした。デビューのころ、世界ヘビー級王者ジョー・ルイスのトレーニング・キャンプに参加し、ボート漕ぎで腕力をつけた。1942年10月に、宿敵ジェイク・ラモッタと初めて対戦して勝ち、この年のリングマガジンのファイター・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。1943年2月、ラモッタに10回判定でプロ初黒星を喫し、40連勝がとまったが、わずか3週間後の再戦で勝った。同月、アメリカ陸軍に入隊した。基地を回ってジョー・ルイスとエキシビションを行ったが、黒人兵が差別から観戦を許されず、抗議したこともある。
軍の生活の中で、1944年に突然兵舎から姿を消して病院に運ばれ、5日間の記憶を失っているとして、精神遅滞と診断されて、名誉除隊となった。当時ボクシング業界を牛耳っていたマフィアに協力するのを拒んだため、世界挑戦まで5年、75戦を要した。1946年12月20日、トミー・ベルを15回判定で破り、世界ウェルター級王者となった。1950年にはペンシルベニア州認定のミドル級王座も獲得し、1951年2月14日、シカゴでラモッタの世界ミドル級王座に挑戦して、13回TKO勝ちで二階級を制覇した。映画『レイジング・ブル』にも描かれた壮絶な死闘で、試合の日付にちなんで「聖バレンタインデーの虐殺」と呼ばれた。同年7月にロンドンでランディ・ターピンに判定で敗れたが、9月にポロ・グラウンズで6万人の観衆を集めた再戦で、10回TKO勝ちして王座を奪回した。
1952年6月、世界ライトヘビー級王者ジョーイ・マキシムに挑戦したが、高温のため13回終了後に立ち上がれず、引退を表明した。歌手やタップダンサーとして活動したが、才能は開花せず、1954年にボクシング復帰に向けたトレーニングを始めた。1955年1月に33歳で再起し、12月にはカール・ボボ・オルソンを2回KOで破って、通算3度目のミドル級王座を獲得した。1957年1月に王座を失い、5月にジーン・フルマーを5回KOで破って、4度目の王座を獲得した。ミドル級の世界王座を5回獲得した記録は、21世紀にも並ぶ者がない。多くの評論家やファンが、全階級を通じた史上最高のボクサーと認め、日本では「拳聖」と称される。1989年4月12日に死去した。
同じ年に亡くなった人物
- パンチェン・ラマ10世 (1989年没)
- エリク・ペーション (1989年没)
- 宮崎康二 (1989年没)
- ウィルフリド・セラーズ (1989年没)
- エロワ・ムランベール (1989年没)