伝記
ピーテル・ブリューゲルは、16世紀のブラバント公国、現在のオランダとベルギーにあたる地域の画家である。1525年から1530年頃に生まれ、1569年9月9日に没した。同名の長男と区別するため、父または老と呼ばれることが多い。生涯に関する資料は極めて少なく、ほとんど1604年にカレル・ヴァン・マンデルが書いた伝記だけが頼りだが、この伝記は逸話的な要素が多く、必ずしも正確とはいえない。ブリューゲル自身は文章を何も残していない。
生年も生地もはっきりしない。マンデルの伝記はブレダ近くのブリューゲル村の生まれとし、アントウェルペンに住んだイタリア人も同じくブレダ出身としている。マンデルは農民を多く描いたことから農民出身と考えたようだが、人文主義者とも交流を持つ、教育を受けた都市生活者であった可能性のほうが高いとされる。1551年にアントウェルペンの画家組合である聖ルカ組合に名前が登録されたのが最初の記録で、新規加入は通常21歳から26歳だったことから、生年が逆算されている。マンデルによれば、アントウェルペンで宮廷画家ピーテル・クック・ファン・アールストに絵を習い、その後は版画業者ヒエロニムス・コックの下で働いた。1550年9月から翌年10月まではメヘレンで、ピーテル・バルテンスとともに手袋製造業者のギルドのために祭壇画を制作している。
組合に加入してほどなく、イタリアへ旅立った。リヨンを経てモン・スニ峠を越える道で、画家マールテン・デ・フォスも一緒だったと思われる。1552年には南イタリアのカラブリア州まで赴いたことが、同年トルコの攻撃で焼けたレッジョ・ディ・カラブリアの街の素描から推測される。1553年までにはローマに戻っており、2枚のエッチングにローマで1553年に描いた旨の銘がある。遅くとも1554年には北方に戻り、マンデルは「アルプスですべての山々と岩々を飲み込み、帰ってからそれをキャンバスとパネルの上に吐き出した」と書いた。1555年までにはアントウェルペンにおり、この年にコックが「大風景画」と呼ばれる12枚の版画を出版している。日付のある油絵は1557年が最初である。当時のアントウェルペンは大航海の一大拠点として栄えた。ブリューゲルはアブラハム・オルテリウスや出版業者クリストフ・プランタンらの人文学者と親交を持った。
1563年、ピーテル・クックの末娘マリア・クックと結婚してブリュッセルに移り、主要作品の多くをここで制作した。夫妻には長男ピーテル、次男ヤン、娘1人が生まれた。1567年8月、スペイン王フェリペ2世が派遣したアルバ公がブリュッセルに入り、プロテスタントを激しく弾圧するのを、ブリューゲルは間近で見た。マンデルによれば、死の直前に妻に、あまりに直截的で風刺的な素描を焼き捨てさせたという。ただし特定の党派に属してはいなかった可能性が高い。1569年に30代末から40代前半で没し、ノートルダム・ド・ラ・シャペル教会に埋葬された。
油絵は約40点が知られ、約30点が最後の6年間のブリュッセル時代のものである。「ネーデルラントの諺」(1559年)で初めて本領を発揮し、1562年には「叛逆天使の墜落」「死の勝利」などボス風の作品を手がけ、1563年に「バベルの塔」の第1版を描いた。1565年には有名な連作月暦画を完成させ、1568年頃には「農民の婚宴」「農民の踊り」を描いた。農民の生活を多く題材にしたことから「農民画家」とも呼ばれ、細部まで丹念に描き込まれた作品は、風俗史の資料としても貴重である。
同じ年に亡くなった人物
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- ミコワイ・レイ (1569年没)
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- キャサリン・ケアリー (1569年)
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