HISTORICAL PERSON · 1990年没

スティーヴィー・レイ・ヴォーン

アメリカのブルース・ロック系ギタリスト。テキサス出身でバンド「ダブル・トラブル」を率いた。ローリング・ストーン誌の偉大なギタリスト100人で2003年に7位。

生涯
1990年没
死亡地
アメリカ合衆国(ウィスコンシン州 / イーストトロイ)
出生地
アメリカ合衆国(ダラス)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ウィスコンシン州)

伝記

スティーヴィー・レイ・ヴォーンは、本名をスティーヴン・レイ・ヴォーンといい、1954年10月3日、テキサス州ダラスに生まれたギタリスト、作曲家、歌手である。アルバート・キング、エルモア・ジェームス、オーティス・ラッシュらの強い影響を受けており、同郷のジョニー・ウィンターの後継者的存在とされた。兄は、ファビュラス・サンダーバーズのジミー・ヴォーンである。音楽家の道を志してダラスからオースティンに向かい、そこでジョニー・ウィンターの目にとまった。「ポール・レイ・アンド・ザ・コブラス」というバンドで活動を始め、1970年代の中ごろまでにシングルを3枚出した。1975年に「トリプル・スレット・レヴュー」を結成し、W・C・クラークとマイク・キンドレッドらが加わった。クラークとキンドレッドは、のちに彼の持ち歌として知られる「コールド・ショット」の作者である。

1978年、ドラマーのバートンが脱退すると、残ったスティーヴィーとクリス、ジャッキー・ニューハウスの3人は「ダブル・トラブル」と名乗って活動を続けた。この時から、スティーヴィーがリード・シンガーも兼ねるようになった。バンド名は、オーティス・ラッシュの曲から取られている。1982年、モントルー・ジャズ・フェスティバルに出演し、演奏を見ていたデヴィッド・ボウイとジャクソン・ブラウンに声をかけられた。この出会いが、のちに成功していくきっかけとなった。それまでは、地元テキサスと南部のローカルなミュージシャンだった。1983年には、ボウイのアルバム『レッツ・ダンス』に参加して、創造的なギター演奏を披露し、同曲の大ヒットで、知名度は全米へ広がった。

同年、ジャクソン・ブラウンのスタジオで録音した、「スティーヴィー・レイ・ヴォーン&ダブル・トラブル」名義の最初のアルバム『テキサス・フラッド』を発表し、50万枚を売ってゴールド・ディスクを獲得した。1984年に2作目の『テキサス・ハリケーン』を発表した。1985年1月に来日し、3作目の『ソウル・トゥ・ソウル』も発表した。その後、麻薬とアルコールの中毒になって入院し、麻薬の治療はジョージア州アトランタで行われた。1989年に4作目『イン・ステップ』を発表し、グラミー賞の最優秀コンテンポラリー・ブルース・レコーディング賞を獲得した。同年、ジェフ・ベックとともに全米ツアーを行った。主にフェンダー・ストラトキャスターを愛用し、一弦が.013から始まるかなり太い弦を張って、ほとんどの曲で半音下げのチューニングにした。弦高も高く、ほかのギタリストが「並みの握力では弦を押さえることもできない」と言うほど、極端なセッティングだった。

1990年8月26日、ウィスコンシン州のブルース・フェスティバルに出演し、エリック・クラプトン、バディ・ガイ、ジミー・ヴォーンらと共演した。終了後、シカゴ行きのヘリコプターに乗り込んだが、8月27日未明、濃霧で視界を失ったヘリコプターがスキー場の斜面に墜落し、乗員全員とともに死去した。葬儀はダラスで行われ、参列者は1500人を超え、会場の外にはさらに3000人が集まった。1991年に、テキサス州知事は彼の誕生日の10月3日を「スティーヴィー・レイ・ヴォーン・デイ」に制定した。1994年にオースティン市がタウン・レイクに銅像を設置し、2015年にロックの殿堂入りを果たした。

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