伝記
ティリダテス2世は、217年から252年までアルメニアの王であったアルサケス家の王子である。古いアルメニアの史料では、その治世の出来事は「勇者ホスロウ」の名と結びつけて語られている。治世の大半は、イランでアルサケス家の同族を倒して政権を握ったササン朝との戦いに費やされた。
214年、父のホスロウ1世とされる王が、ローマ皇帝カラカラに捕らえられた。カッシウス・ディオによれば、カラカラは王と息子たちの争いを解決するという口実で王をローマに誘い出して逮捕したという。この王の名は記されていないが、ホスロウ1世と考えられている。逮捕はアルメニアで反乱を引き起こし、鎮圧に派遣されたローマ軍は敗れた。217年、カラカラの後を継いだマクリヌスは、ローマとパルティアの講和条約の中で、ローマで捕らえられた王の子ティリダテス2世の王位を承認した。
224年ごろ、イランの最後のアルサケス朝の王アルタバヌス4世が、ササン朝のアルダシール1世に倒された。アルメニアのアルサケス家の王は、同族を滅ぼしたこの新王朝に敵対し、ローマに接近してササン朝と衝突することになった。マナンディアンらによれば、アルタバヌスの子らや、新王朝に反対するパルティアの貴族たちがアルメニアへ来たのはこの時期で、のちにアルメニアで有力となるマミコニアン家やカムサラカン家もその中にいた。アルメニア人は、アルタバヌスの子らが率いるアトロパテネの人々と同盟してアルダシールのアルメニア征服の試みを退けた。232年、ティリダテスはシリアやカッパドキアに対するアルダシールの攻撃へのローマの反撃に加わった。ローマ軍はアルメニアを通ってメディアに侵攻し、一定の成果を挙げたが、ほかの挫折もあって撤退を強いられ、アルメニアの冬に多くの兵が死んだ。トゥマノフは、アルメニアの伝承が、ティリダテス2世を「大ホスロウ」の姿を借りて、治世のあいだじゅうイランと戦った王として正しく記憶していると記している。
アルダシールの子で後継者のシャープール1世は、ローマに対して数々の勝利を収めた。244年のミシケの戦いでササン朝が勝利すると、ローマはアルメニアに対する保護権を放棄した。歴史家はこれをアルメニアに対するササン朝支配の始まりとみなしている。ローマがアルメニアでの地位を取り戻そうとしたことに対応したとみられ、シャープールは252年にアルメニアへ侵攻した。トゥマノフによれば、これによりティリダテス2世はローマ領へ逃れた。ティリダテス2世の息子たちはシャープールの側に移り、シャープールは自分の息子ホルミズド・アルダシールをアルメニア王とした。マナンディアンも逃亡を252年とするが、後継者は、ササン朝によって王位に就けられたアルサケス家ではないアルタヴァスデスであったとする。
没年には異説がある。スレン・イェレミアンによれば、ティリダテス2世はササン朝によるアルメニアの掌握を逃れて253年に亡命し、ローマが支配する縮小されたアルメニアの一部を治め続けたが、256年にシャープール1世の命令で暗殺された。そのあと、ササン朝がアルメニアのローマ側の地域に侵攻し、殺された王の幼い息子ティリダテスが逃亡したという。この分割の説は、根拠がないとアルタシェス・マルティロシアンに批判されている。後継者についても、マナンディアンとトゥマノフはホスロウ2世という息子を想定し、イェレミアンはホスロウ2世は存在せず、のちにアルメニア王としてキリスト教を国教とするティリダテス3世の父がティリダテス2世だったとする。