伝記
孫権は、三国時代の武将で、呉の初代皇帝である。字は仲謀。孫氏は春秋時代の兵法家孫武の末裔とされ、父は孫堅である。光和5年(182年)、孫堅が下邳に在任していたとき、五男三女の第四子(次男)として生まれた。孫堅が黄祖の部下に射殺された後は、兄の孫策とともに袁術のもとに身を寄せ、孫策が劉繇を破ると家族とともに曲阿などに移った。建安元年(196年)、15歳で陽羨県令となり、孫策に可愛がられて常にその計略や謀議に加わった。
建安5年(200年)、19歳で孫策の遺命を受けて家督を継いだ。張昭に師傅の礼を執り、周瑜・程普・呂範らをまとめ、魯粛・陸遜・諸葛瑾・顧雍・呂岱らを積極的に登用した。当初は江東六郡を領有していたが、五郡が反旗を翻し、従兄の孫輔の内通、弟の孫翊や孫河の殺害、廬江太守李術の反乱など、困難が相次いだ。孫権は自ら皖城を包囲して李術を討ち、3万人を得た。山越の反乱も諸将に鎮めさせ、江東各地を平定した。建安8年(203年)には父の仇である黄祖を攻めたが、山越の反乱で撤退し、建安13年(208年)に再び攻めて黄祖を討ち取った。
同年末、曹操が大軍を率いて南下し、水軍80万と称する書簡を送ってくると、群臣は震え上がった。張昭ら降伏派が多数を占める中、孫権は魯粛の進言を容れ、劉備と同盟する道を選んだ。周瑜らが情勢を分析して開戦が決まり、孫権は剣を抜いて机を斬りつけ、降伏を唱える者はこの机と同じ運命になると言い放ったという。周瑜と程普に2万の軍を預け、自らも1万を率いて後詰めとした。曹操軍が疫病に苦しむなか、周瑜らは黄蓋の火攻めで水軍を大破した(赤壁の戦い)。戦後、孫権は荊州南部の数郡を領有し、妹を劉備に嫁がせたが、周瑜は蜀への遠征の途上、巴丘で急逝した。魯粛の提案で、孫権は荊州の数郡を劉備に貸し与えた。
建安15年(210年)には歩騭を交州に派遣し、呉巨を斬って士燮一族を服属させ、交州の九郡を領有した。建安17年(212年)から翌年にかけて曹操が濡須に侵攻すると、孫権は自ら7万を率いて迎え撃った。孫権が軽船で曹操の陣営へ近づいて引き返したとき、布陣に乱れがないのを見た曹操は「息子を持つなら孫権のような息子がいい」と語ったという。孫権は「春は水が生じる。早く去られよ」と書き送り、別の紙には「足下が死なねばわしは安んずることができぬ」とも書いたが、曹操は「孫権はわしを欺かぬ」と諸将に語り、軍を引き上げた。戦後、曹操が領内の人々を移住させようとすると、淮水・長江付近の十数万の人々が孫権の領内へ逃げ込んだという。建安19年(214年)には皖城を攻め落とし、合肥攻めでは張遼の奇襲を受けたが、橋を騎術で飛び越えて退却した。劉備が荊州の返還を先延ばしにすると、呂蒙らに長沙・桂陽・零陵を奪い返させ、曹操の漢中侵攻をきっかけに、湘水を境として和解した。甘寧が100人で曹操軍に夜襲をかけて退けたこともある。建安22年(217年)の濡須でも曹操を退け、209年から217年の間に四度、曹操の侵攻を食い止めたとされる。
建安23年(218年)、孫権は曹操に帝位に就くよう勧め、曹操は「この小僧め。跪いてみせながらわしを囲炉裏の炭の上に据えようというのか」と言ったという。翌建安24年(219年)、孫権は息子と関羽の娘との婚姻を申し入れたが、関羽に断られた。没年は252年とされる。