伝記
司馬師は、中国三国時代の魏の武将・政治家である。字は子元。司馬懿の長男で、司馬昭・司馬榦の同母兄にあたり、生母は張春華である。のちに西晋が建つと、世宗の廟号と景帝の諡号を贈られた。沈着冷静で先見の明に長け、若いときから夏侯玄や何晏と名声を等しくした。魏の景初年間に散騎常侍を拝命し、皇帝の近衛兵を指揮する中護軍に昇進した。
司馬師は父の司馬懿とともに曹爽に対するクーデターを計画したが、弟の司馬昭すら兄の考えを知らなかった。正始10年(249年)正月、決行の日の早暁に、司馬孚と共に洛陽宮城の城門を速やかに押さえて内外を鎮撫した。その整然とした陣容を見た司馬懿は「子元もやるようになった」と言った。司馬師はかねて死を覚悟した壮士を3000人ほど養っており、彼らはクーデターでたちまち集結したが、周囲にはどこから来たのか分からなかったという。この功で衛将軍となった。嘉平3年(251年)8月に司馬懿が亡くなると、撫軍大将軍として魏の全権を掌握し、翌年には大将軍となった。
嘉平4年(252年)、孫権の死に乗じて胡遵・諸葛誕らに呉の東興を攻めさせたが、呉の諸葛恪に大敗した。諸将の罪を問う声があったが、司馬師は「諫言を聞かずここに至った。これは私の過失である。諸将に何の罪があろうか」と述べて責めを自ら負い、人々はその度量に服したという。嘉平5年(253年)4月に諸葛恪が合肥新城を包囲すると、司馬師は、諸葛恪は政治を執って日が浅く目先の利に動いているのだと見て、司馬孚・毌丘倹・文欽らに20万の軍勢を向かわせた。毌丘倹らは戦いを求めたが、諸葛恪は深入りして死地にあり、合肥新城は小さいが守りやすいと見て、高い塁を築かせて敵の疲弊を待った。諸葛恪は数か月力攻めを続けたが落とせず、疫病で多くの兵を失い、7月に撤退した。
正元元年(254年)、皇帝の斉王曹芳が張皇后の父の張緝や李豊らに命じ、司馬師を排斥して夏侯玄を執政にしようとした。察知した司馬師は李豊を邸に招き、罵られて激怒すると、配下の壮士に命じて殺させた。ついで張緝や夏侯玄らを三族皆殺しにし、張皇后も廃した。そして嘉平5年9月、皇太后の命令として荒淫などを理由に曹芳を廃した。この令の内容がどこまで真実かは不詳とされる。後継に司馬師は彭城王曹拠を挙げたが、郭太后が世代の序列に合わないとして退け、高貴郷公曹髦が立つことに決まった。
正元2年(255年)、毌丘倹と文欽が6万の兵で反乱を起こした。朝議の多くは諸将の派遣を唱えたが、鍾会・王粛・傅嘏らが司馬師自身の出陣を勧め、司馬師は10数万の兵を率いて進発した。彼は高塁を築いて東の軍の結集を待ち、城攻めを請う諸将を退けて「戦わずして勝つ」方針をとった。鄧艾を楽嘉に派遣して文欽を誘い出し、文欽の子の文鴦が奇襲をかけてくると、「文鴦は三度鼓したのに、文欽は応じなかった。その勢いは既に屈している」と述べて追撃を緩めず、文欽らを大いに破った。毌丘倹は逃亡したが捕らえられて斬首され、文欽父子は呉に亡命した。司馬師は持病の目の悪性の瘤を手術した直後で、文鴦の奇襲を受けて無理をしたため、左目の目玉が飛び出してしまった。士気への影響を恐れて傷を隠した。閏月に病状が悪化すると、司馬昭を呼んで後事を託し、許昌で没した。享年48で、毌丘倹の死からわずか7日後のことだった。男子がなく、司馬昭の三男の司馬攸を猶子としていたが、後継には司馬昭の長男の司馬炎が選ばれた。諡号は初め「武公」、のち「忠武公」となり、司馬昭が晋王となると「景王」、司馬炎が即位すると「景皇帝」と贈られた。