伝記
哲宗は、1077年1月4日、北宋の神宗の六男として生まれた。姓は趙、初めの名は傭で、即位後に煦へ改めた。1085年に父が急死すると、幼くして北宋の第7代皇帝となった。祖母の宣仁太后高氏が垂簾政治を行い、実際の政務を掌握した。太后は司馬光ら旧法派を登用し、王安石が推進し、神宗が実施してきた新法を撤廃する方向へ政治を転換した。元祐と呼ばれるこの時期、哲宗自身の権限は限られていた。師の一人である程頤からは、人に内在する理が道徳的な導きとなるという学問を教えられた。
太后の政権は、新法以前の制度への復帰を進めた。しかし、二十年余りにわたる施行ですでに定着していた仕組みを覆したため、社会には混乱が生じた。1086年に司馬光が死去すると、旧法派の内部でも後継者たちが争い、互いの中傷や牽制が政権を揺さぶった。1093年に宣仁太后が死去し、哲宗はようやく親政を始めた。父の事業を受け継ぐことを掲げて旧法派の方針を退け、1094年には年号を紹聖と改めた。宰相には、神宗の親政期に副宰相を務めた新法派の章惇を任命した。哲宗は太后による政策の撤回が民衆と政府に害を与えたと考え、改革の再開を支持した。新法派にも旧法派にも内部抗争があり、改革の実際の効用以上に党派の対立そのものが問題となっていた。政治の手本についても、漢や唐より堯・舜など古代の聖王を重んじた。
章惇は新法を復活させるとともに、旧法派の官僚を徹底して排除した。新法派の蔡確が先に嶺南へ流されたことへの報復として、旧法派も同じ地域へ追放された。三十七人の旧法派を列挙した名簿が作られ、本人だけでなく子孫も官界から締め出された。哲宗は科挙にも改革支持の立場を求めたため、政策と人事をめぐる対立は官僚組織を深く分裂させた。再施行された新法には矛盾もあり、粛清とともに朝廷や社会に動揺をもたらしたが、治世の後半には政治と経済が安定し、国庫も充実した。対外的には西夏との交渉を打ち切って戦争を再開した。宋軍は国境を固め、要塞を築きながら西夏の領土を徐々に奪い、相手に融和的な姿勢を取らせた。1098年には元符へ改元した。
1099年5月18日、哲宗は咳と便秘を伴う病にかかった。薬を重ねても回復せず、側近に医師を推薦させ、耿愚の診療を受けた。七月には激しい下痢が続き、床を離れて薬を受け取ることもできなくなった。気候が涼しくなると一時は持ち直し、八月には息子趙茂の祝いにも出席したが、その後また病状が悪化した。八月十四日に側近と会った際には、耿愚から吐き気を起こす薬を処方されたと話した。少し回復しても食欲は戻らず、腹痛が続いた。趙茂も病に倒れ、九月には容体がよくなったものの、ほどなく死去した。哲宗は三日間朝見を取りやめた。自身の誕生の祝いも病のため中断し、嘔吐や喉の炎症に苦しみ、十二月には脈が弱くなった。1100年2月23日、開封で死去した。満23歳、数え年では24歳で、在位は十五年に及んだ。息子が夭折していたため、異母弟の徽宗が皇位を継いだ。神宗の皇后である向太后のもとで新法と旧法を折衷する政治が行われ、その後、徽宗の治世には蔡京の長期政権が成立した。