伝記
ジグムント2世アウグストは、1520年8月1日に生まれ、1572年7月7日に没した、ポーランド王でありリトアニア大公である。ジグムント1世の長男で、母はイタリア出身のボナ・スフォルツァである。二人の子のうち長子で、幼少期を生き延びた唯一の子であり、最初から後継者として広く教育された。母が初代ローマ皇帝のアウグストゥスにちなんで名づけようとしたのに父が反対したため、二つの名を持つことになったという。ヤギェウォ家の最後の男子であり、1548年から1572年まで在位した。
ポーランド王位は選挙制だったため、父と母は息子の継承を確実にしようとし、1529年に彼は父の存命中にリトアニア大公と、共同のポーランド王に選ばれた。1530年2月、9歳で首座大司教ヤン・ワスキの手により戴冠している。この生前選挙は貴族から批判され、1537年の反乱の一因となった。1544年から大公として実際に統治を始めた。最初の妻は、ボヘミア・ハンガリー王フェルディナントの娘エリーザベトだったが、1545年に18歳で亡くなった。
1548年の即位直後から、王権を制約し始めていた貴族階級シュラフタの挑戦を受けた。原因は、カルヴァン派のリトアニア貴族の娘バルバラ・ラジヴィウと、即位直前に密かに婚約していたことに貴族が猛反発したことにあった。反対運動の中心には、外戚であるローマ王フェルディナント1世と母ボナがいたようで、両者は10月31日のセイムを煽動し、結婚を解消しなければ臣下の忠誠義務を解くと脅させた。国王はこれを拒否し、政治的機敏さと強い意志でこの難局を切り抜けた。1550年には2度目のセイムを召集し、貴族が国王の立法大権を不法に侵害しようとしたと非難している。しかし1551年にバルバラが亡くなると悲嘆にくれ、政治同盟の必要から、フェルディナント1世の娘カタリーナと結婚した。彼女は最初の妻エリーザベトの妹だったが、結婚は完全に失敗で、子ももうけられなかった。王朝は断絶の危機に見舞われ、国王は二人の愛妾に男子を産ませようと考え、セイムも男子が誕生すれば嫡出子として認めるとした。彼はやがてカタリーナとの結婚解消を申し立て、プロテスタント貴族の支持を得たが、カトリックとプロテスタントの双方の調停も図り続けた。1572年2月に王妃カタリーナが亡くなり、国王は再び独身となった。
治世には宗教改革が国内で問題となり、シュラフタが国家権力を着実に掌握していった。リヴォニア騎士団の弱体化に伴うリヴォニア戦争に巻き込まれ、南部ではオスマン帝国の侵入にも直面した。国王は父ほど存在感はなかったが、洗練されたルネサンス君主で、セイムの本質を見抜いていたと評され、外国の使節は「全てが王の思うがままに動いていた」と述べたという。宝石や、ブリュッセルの職人に注文させたタペストリーの熱心な蒐集家でもあった。治世は黄金時代の頂点と見られ、最初の正規の海軍と郵便業務を整えたとされる。最大の出来事は1569年のルブリン合同で、ポーランド・リトアニア共和国が成立し、これにはジグムントの働きかけが大きかったとされる。1572年7月、お気に入りだったクニシンの城館で亡くなり、ヤギェウォ朝は断絶した。1573年の国王自由選挙では、フランス王の弟ヘンリク・ヴァレジが選ばれた。
同じ年に亡くなった人物
- ピエール・ラムス (1572年)
- アーニョロ・ブロンズィーノ (1572年没)
- ガレアッツォ・アレッシ (1572年没)
- Sah Huban Sultan (1572年没)
- バルバラ・ダウストリア (1572年没)
同じ地域に関係する人物
- ミカエル・ソボチコ (1975年没)
- ウカシュ・グルニツキ (1603年没)
- ヤン・クレメンス・ブラニツキ (1771年没)
- ヤヌシュ・ラジヴィウ (1612-1655) (1655年没)