伝記
カール・デイヴィッド・アンダーソンは、1905年9月3日にニューヨークで生まれたアメリカ合衆国の実験物理学者である。スウェーデンからの移民である父カール・デイヴィッド・アンダーソンと、母エンマ・アドルフィナ・アヤクソンの息子であった。カリフォルニア工科大学で物理学と工学を学び、1927年に学士の学位を、1930年に博士の学位を取った。その後は研究者としての経歴のすべてを、この大学で過ごした。1930年から1933年まで研究員、1933年から1939年まで助教授から准教授を務め、1939年に物理学の教授となり、1976年に退職するまでその地位にあった。1946年にロレーヌ・バーグマンと結婚し、二人の息子をもうけた。
ロバート・ミリカンの指導のもとで宇宙線の研究を始めた。その過程で、撮影した霧箱の写真に、予想外の粒子の痕跡が写っているのを見つけ、電子と同じ質量で逆の電荷を持つ粒子が作ったものだと正しく解釈した。この発見は1932年に発表され、他の研究者によっても確認されて、陽電子の存在を予測したポール・ディラックの理論を裏付けた。まず宇宙線の中から陽電子を検出し、その後、自然放射性核種から発生するガンマ線を他の物質に照射して、陽電子と電子の対を生成させ、より決定的な証拠を得た。この功績により、ヴィクトール・フランツ・ヘスとともに、1936年にノーベル物理学賞を受賞した。その50年後に、自分の発見は、カリフォルニア工科大学の同級生である趙忠堯の研究に触発されたものであることを認めた。趙の研究は、アンダーソンの研究を発展させる基礎になったが、当時、趙の名前はクレジットされていなかった。
1936年には、最初の指導学生セス・ネッダーマイヤーとともに、電子の207倍の質量を持ち、電子と同じ負の電荷とスピン1/2を持つ素粒子を、宇宙線の中から発見した。これがミュー粒子である。当初は、湯川秀樹が強い相互作用の理論で提唱した中間子が検出されたものだと考えられ、「ミュー中間子」と呼ばれた。しかし中間子ではないことが明らかになると、理論物理学者のI・I・ラービは、この予想外の発見が、素粒子物理学の論理的な枠組みにどう適合するのか困惑し、「そんなもの、誰が注文したんだ?」と言ったという逸話がある。ミュー粒子は、長い歴史の中で、理論物理学者たちを当惑させた素粒子の最初のものであった。ウィリス・ラムは1955年のノーベル賞受賞講演で、新しい素粒子の発見者は、かつてはノーベル賞で報われたが、今ではそのような発見は1万ドルの罰金で罰せられるべきだという話を聞いたと冗談を言っている。その解明には、西島和彦とマレー・ゲルマンらによる、素粒子の新しい規則性が必要となった。第二次世界大戦中は、カリフォルニア工科大学でロケットの研究を行っていた。1937年にエリオット・クレッソン・メダルを受け、1950年にはアメリカ芸術科学アカデミーのフェローに選ばれ、1975年にはアカデミー・オブ・アチーブメントのゴールデンプレート賞を受けた。1991年1月11日にカリフォルニア州サンマリノで死去し、ロサンゼルスの墓地に埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
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