HISTORICAL PERSON · 1991年没

デヴィッド・リーン

イギリスの映画監督。カメラマン助手などを経て『逢びき』でカンヌ国際映画祭グランプリを受賞し、『大いなる遺産』なども手がけた。

生涯
1991年没
死亡地
イギリス連邦(タワーハムレッツ区 / ライムハウス)
出生地
イギリス連邦(クロイドン)
出典
世界地図
イギリス連邦(タワーハムレッツ区)

伝記

デヴィッド・リーンは、1908年3月25日にロンドン郊外のクロイドンで生まれたイギリスの映画監督である。両親はクエーカー教徒で、父フランシス・ウィリアム、母ヘレナ・タンジーのもとに生まれた。クエーカー系の学校で学んだが、夢見がちで、学業は振るわなかった。1926年のクリスマスに、18歳で学校を去り、父の会計事務所に見習いとして入った。10歳のとき、叔父から小型のコダックのカメラを贈られたことが、正規の教育よりも重要な出来事で、自分でフィルムを焼き付けるのが趣味となった。1927年、叔母に、好きな仕事を探すよう勧められ、19歳のときにゴーモン社の撮影所を訪ね、熱意を認められて、無給で働くことになった。使い走りとして雇われ、映画らしい最初の仕事はカチンコ係だった。

1930年代はニュース映画の編集者として働き、長編映画の仕事は1934年の作品から始まった。『ピグマリオン』(1938年)や『バーバラ少佐』(1941年)の編集を担当し、1942年まで20本を超える長編の編集を務めたのちに、劇作家ノエル・カワードとの共同監督作品『軍旗の下に』(1942年)で、戦闘場面の撮影を担当して監督デビューした。この作品はイギリス海軍を主題にしており、アカデミー作品賞にノミネートされた。その後、カワードの戯曲を映画化した作品を重ね、1945年の『逢びき』は、カワードの短編戯曲『静物画』を映画化した恋愛映画で、第1回カンヌ国際映画祭のグランプリを受賞した。続けて、ディケンズ原作の『大いなる遺産』(1946年)や『オリバー・ツイスト』(1948年)を監督し、キャロル・リードとともに、1940年代から50年代のイギリス映画界を牽引した。1954年にはコメディ映画『ホブスンの婿選び』で、ベルリン国際映画祭の金熊賞を受賞した。

1957年に、ハリウッドのプロデューサーであるサム・スピーゲルと組んだ戦争映画『戦場にかける橋』が公開された。早川雪洲やアレック・ギネス、ウィリアム・ホールデンら、世界各国から豪華なキャストが集結し、ビルマの奥地のジャングルで撮影するなど過酷を極めたが、公開されると大ヒットし、その年の全世界の興行成績で1位となった。第30回アカデミー賞では作品賞を含む7部門を受賞し、リーンも監督賞を初めて受賞した。続いて、再びスピーゲルとの組み合わせで『アラビアのロレンス』(1962年)を制作した。ピーター・オトゥールとオマー・シャリフの出世作となった本作は、1962年度の興行成績で1位を記録して前作を上回り、第35回アカデミー賞では7部門を受賞して、2度目の作品賞と監督賞を受けた。1965年には、パステルナークの小説を原作とする『ドクトル・ジバゴ』を映画化し、興行収入は1億ドルを超え、第38回アカデミー賞では5部門を受賞した。これらの3作品のすべてに、ギネスを起用した。

1970年の『ライアンの娘』は、前作ほどの興行収入が得られず、批評家からも厳しい批判を受け、特にポーリン・ケイルの批判が厳しかったため、14年間、監督から遠ざかったという。1984年に、遺作となる『インドへの道』を公開し、脚本と編集も担当して復活を遂げた。1980年代半ばには、スピルバーグ製作の『太陽の帝国』を監督しようとしたが、最終的にはスピルバーグ自身が監督した。その後、コンラッドの小説の映画化を企画していたが、1991年4月16日に、咽頭癌のため83歳で亡くなった。

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