伝記
ジョルジョ・ヴァザーリは、イタリアのマニエリスム期の画家、建築家であり、美術家の評伝を著した著述家でもある。1511年7月30日、トスカーナ地方のアレッツォに、織物商アントニオ・ヴァザーリとマッダレーナ・タッチの子として生まれた。家は裕福ではなかったとされる。幼いころ、従兄にあたる画家ルカ・シニョレッリの推薦で、フランス人のステンドグラス画家ギヨーム・ド・マルシヤの工房に通い、並行して人文学者ジョヴァンニ・ポリオ・ラッポリのもとで基礎的な教養も学んだ。
1524年、アレッツォを訪れた枢機卿シルヴィオ・パッセリーニは、少年がウェルギリウスの叙事詩『アエネイス』を暗誦できることに驚いたという。少年は枢機卿に従ってフィレンツェに出て、メディチ家の周辺に加わり、人文学者ピエリオ・ヴァレリアーノに学んだ。美術ではアンドレア・デル・サルトと、その弟子ロッソ・フィオレンティーノやポントルモ、さらにバッチョ・バンディネッリの素描の教室に学び、素描の技量や遠近法を身につけたとされる。のちにこのフィレンツェ時代を生涯でいちばん幸福な時期として回想している。同じ古代美術への関心から友人となった画家フランチェスコ・サルヴィアーティとは、ローマでラファエロやミケランジェロの作品、古代の遺跡を学んだ。最初のローマ訪問は1529年とも、1531年から32年ともいわれる。
のちにメディチ家のトスカーナ大公コジモ1世に仕える芸術家となり、フィレンツェのヴェッキオ宮殿の五百人大広間の装飾などの大事業を任された。ほかにローマの官房宮殿の百日の間の装飾や、ボスコ・マレンゴの修道院の祭壇画も手がけた。建築家としては、ピサのカロヴァーナ宮殿や、現在は美術館となっているウフィツィの官庁舎などを設計した。
最も名高い業績は、チマブーエからミケランジェロまでの芸術家を扱った『画家・彫刻家・建築家列伝』である。1550年に初版が刊行され、133人の作品と生涯を記し、1568年の第二版で30人が加えられた。この中でジョットの新しい絵画を「再生」(リナシタ)と呼んだことは、ヴァザーリが中世とは異なる時代を強く意識していたことを示す。この語はのちに歴史家ミシュレが『フランス史』で「ルネサンス」の語を用いる際の手がかりになったとされる。この著作は、取り上げられた芸術家の評価、また取り上げられなかった芸術家の評価を左右した面もあり、記録の乏しい多くの芸術家については、今日でも主な伝記史料となっている。彼はまた、生涯を通じて多くの芸術家の素描を集め、いわば図解つきの美術史として『素描の書』に整理した。ヴァザーリの記録文書は、列伝の材料や芸術家たちとの私的な書簡を含み、1908年にフィレンツェの旧家の文書庫で再発見され、2017年に公開されて、アレッツォの彼の家に保管されている。
1563年にはヴィンチェンツォ・ボルギーニとともに、美術アカデミー、アカデミア・デッレ・アルティ・デル・ディゼーニョを創立した。これは歴史上初の公的な美術アカデミーとされる。1572年からフィレンツェ大聖堂のドーム天井に『最後の審判』のフレスコ画を描き始めたが、1574年6月27日にフィレンツェで没した。天井画は1579年に完成している。
同じ年に亡くなった人物
- アスカニオ・コンディヴィ (1574年)
- ルートウィッヒ・フォン・ナッサウ (1574年)
- ガブリエル・ド・ロルジュ (1574年没)
- エウスタキウス (解剖学者) (1574年没)
- Guru Amar Das (1574年)
同じ地域に関係する人物
- ヴィオランテ・ベアトリーチェ・ディ・バヴィエーラ (1731年没)
- サルヴァトーレ・フェラガモ (1960年没)
- フェリーチェ・ベアト (1909年没)
- ジョン・ホークウッド (1394年没)
- Alfonso Mistrangelo (1930年没)