伝記
フェデリコ・フェリーニは、1920年1月20日にイタリアのリミニで生まれた映画監督、脚本家である。「映像の魔術師」の異名を持つ。リミニの高校に在学中から、古都フィレンツェの新聞に漫画のはがきを投稿していた。高校を卒業した1939年に首都ローマの「イル・ピッコロ」紙に勤め、やがてユーモア紙のマルク・アウレリオ紙に移って、漫画やコラムを書きながら記者としての経験を積んだ。1942年ごろからはラジオドラマの脚本の仕事が増え、翌1943年には、ラジオドラマへの出演で知り合ったジュリエッタ・マシーナと結婚している。
1944年、ローマが連合国軍の制圧下に入ると、フェリーニは似顔絵屋を開いて生計を立てた。この店を訪れた映画監督ロベルト・ロッセリーニに、映画のシナリオへの協力を頼まれたことが、映画人生の始まりとなった。その映画『無防備都市』は1945年に公開され、イタリアのネオレアリズモ映画を世界に知らしめた記念碑的作品となった。フェリーニはロッセリーニの次作『戦火のかなた』でも脚本を担当し、1952年まで脚本家としての仕事を続けたが、次第に脚本よりも映画の制作そのものに興味を示すようになった。
1950年、『寄席の脚光』でアルベルト・ラットゥアーダとの共同監督により監督デビューを果たし、1952年にはミケランジェロ・アントニオーニの原案による作品で初めて単独で監督を務めた。この作品で音楽監督に起用されたニーノ・ロータは、『オーケストラ・リハーサル』に至るまで、すべてのフェリーニ作品の音楽を手がけた。三作目の『青春群像』(1953年)は、故郷の街とそこで生きるどうしようもない青年たちを描いてヒットし、ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受けた。続く『道』(1954年)は、甘美なテーマ曲と叙情性で世界的なヒット作となり、二年連続の銀獅子賞とアカデミー外国語映画賞を得て、国際的な名声を確立した。一方、イタリア国内では、ネオレアリズモから逸脱した象徴主義の作品だと左派から攻撃され、「ネオレアリズモの危機」と呼ばれた。1955年の『崖』は不評だったが、1957年の『カビリアの夜』は再び高い評価を得た。
作風が変わるのは『甘い生活』からとされる。退廃的なローマ社会を描いたこの作品は、ヘリコプターで吊るされた巨大なキリスト像の冒頭と、河から引き上げられた怪魚のラストなど、随所にシンボルが置かれ、1960年のカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した。だがカトリック教会などから退廃的だと強く批判され、いくつかの国では上映中止に追い込まれた。『8 1/2』(1963年)ではその手法がさらに推し進められ、「映画が撮れなくなった映画監督」の話を借りて、監督自身の内面が赤裸々に綴られた。その後もチネチッタ・スタジオに巨大なセットを組み、『サテリコン』『フェリーニのローマ』『カサノバ』『そして船は行く』などを立て続けに撮り、「スタジオの魔術師」と呼ばれた。外国語映画賞は4度受けており、これは監督として最多とされる。1992年度にはアカデミー名誉賞も贈られた。
1993年に脳内出血で倒れ、同年10月31日に心臓発作で死去した。73歳だった。葬儀はローマのサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会で国葬として執り行われ、チネチッタとリミニでも営まれて、リミニの墓地に埋葬された。妻のマシーナは、『道』『カビリアの夜』『ジンジャーとフレッド』などに主演して寄り添い続けたが、金婚式を迎えた同じ年に夫を失い、5か月後に亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- ジェームズ・ドナルド (1993年没)
- パブロ・エスコバル (1993年没)
- ブルーノ・ポンテコルボ (1993年没)
- アグネス・デ=ミル (1993年没)
- ルチア・ポップ (1993年没)
同じ地域に関係する人物
- シルウェステル1世 (ローマ教皇) (335年没)
- ルートヴィヒ・カース (1952年没)
- ベネディクトゥス2世 (ローマ教皇) (685年没)
- クィントゥス・ホルテンシウス (紀元前287年没)
- ウァバッラトゥス (273年没)