伝記
フェルッチオ・ランボルギーニは、1916年4月28日にイタリア北部エミリア=ロマーニャ州フェラーラ県チェント市内のレナッツォで生まれた実業家である。両親は農家で、ブドウを育てていた。家業の農作業そのものより農業機械に心を引かれ、機械に興味を持ったままボローニャ近郊の工科の学校で学んだ。軍に召集されると自動車部隊に配属され、当時イタリア領だったギリシャのロドス島に送られて、車両整備に携わった。島では総督の運転手も務めたとされる。
第二次世界大戦中にイタリアが連合国と休戦すると、島はドイツ軍に押さえられた。ランボルギーニは一度は捕虜にならずに逃れ、のちに民間人の服装で元の職場に戻って雑用をこなし、ドイツ軍の許可を得て小さな修理工場を開いた。1945年に島がイギリス軍の手に落ちると協力者として逮捕され、イタリアに戻れたのは翌1946年のことだった。この年、ロドスで知り合ったクレリア・モンティと結婚したが、1947年10月13日に息子トニーノが生まれたとき、クレリアは出産で亡くなった。翌1948年にはホテルの娘で教師のアンニータ・ボルガッティと出会い、以後30年以上、事業を支える伴侶となった。
帰国後はピエーヴェ・ディ・チェントに修理工場を開き、買った古いフィアット・トポリーノを750ccの2座オープンに改造して1948年のミッレミリアに出場したが、ファーノで食堂の脇に突っ込んで終わった。一方で軍の放出車両を買い、トラクターに作り替えて売り出した。ガソリンが高価だったため、自作の噴霧器でガソリンで始動してから安価な軽油に切り替えられるようにした。この成功から、1940年代後半にランボルギーニ・トラクター社を設立し、戦後の好景気のなかで農業機械の有力メーカーに育てた。1959年には石油バーナーの工場を開き、これは空調機器の製造にも広がった。1963年にはアウトモービリ・ランボルギーニ社を設立して自動車の製造販売に乗り出し、のちには油圧機器の会社も興している。
自動車製造に進んだきっかけをめぐっては、フェラーリの品質に不満を抱いてエンツォ・フェラーリにあしらわれたという俗説が知られる。しかし2003年ごろ、取材した漫画家に対し夫人は、エンツォとは4回会談しており、品質に疑問を持ったのは事実だが、自分の改善案を手紙で送ったところ丁重な断りの返事が来たため、それなら自分でやってみようと決意したのが真相だと語ったという。目指したのはレーシングカーではなく快適で高性能なGTで、レースには出ない方針をとった。エアコンメーカーでもあったため全車にエアコンを備えた。技師ジャンパオロ・ダラーラがミッドシップの2座スポーツカー、ミウラの開発を進言したときも、腕を組んで考えたのち「どうせ売れない」と言いながら容認した。
ボリビアのクーデターにからむトラクター売買契約のキャンセルから資金難に陥り、1971年にトラクター会社を売却した。自動車会社の株の51%を手放して再建を図ったが、1972年のオイルショックもあり、1974年に残りの49%も手放して自動車業界から退いた。晩年は旅行中にひと目ぼれした土地を購入してテヌータ・ランボルギーニを設立し、ワイン作りやバラの栽培に情熱を傾けた。1993年2月20日、心臓発作で亡くなった。76歳だった。
同じ年に亡くなった人物
- ツゾー・ウィルソン (1993年没)
- 野坂参三 (1993年没)
- Hector De Bourgoing (1993年没)
- マリアン・アンダーソン (1993年没)
- ジャハンギール・ラタンジ・ダーダーバーイ・タタ (1993年没)
同じ地域に関係する人物
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- フィリッポ・リッピ (1469年没)
- ペルジーノ (1523年没)
- バリー・アンズワース (2012年没)
- ニコラウス・クザーヌス (1464年没)