伝記
皇甫謐(こうほ ひつ)は、中国の三国時代から西晋にかけての学者である。建安20年(215年)に生まれ、太康3年(282年)に没した。字は士安、号は玄晏先生。後漢の武将として名高い皇甫嵩の子である皇甫叔献の系統に連なる曾孫にあたり、安定郡朝那県、現在の寧夏回族自治区固原市彭陽県あるいは甘粛省平涼市の朝那の出身とされる。曾祖父の皇甫嵩は黄巾の乱の鎮圧に携わった人物である。名門の血筋ではあったが、生家は貧しい農家だったともいわれる。
幼くして親を失い、叔父の家のある新安(現在の河南省澠池県)で貧しい少年時代を送ったとされる。若い頃は身持ちが定まらず、学問にも身を入れなかったという。235年に心を入れ替えて経典の勉強に打ち込むようになり、やがて経書に通じた文人として名が知られ、玄晏と号した。寝食を忘れて書を読みふけったため「書淫」と呼ばれたと伝わる。官職には就かず、著述に専念した。
西晋の武帝は何度も皇甫謐を招いたが、皇甫謐は仕官を断った。詩の形でも、皇太子の教育係になるようにという武帝の申し出を辞退したとされる。本を借りたいと願い出ると、武帝は車いっぱいの書物を与えた。また、左思が「三都賦」を著したとき、無名の作者であったため当初は評判がよくなかったが、皇甫謐が序文を書くと誰もが褒めるようになったという。この序は『文選』に収められている。
読書に没頭した結果、体を壊したともいわれる。手足が曲がらなくなるリウマチ性の病とも、半身が麻痺する卒中ともされ、これをきっかけに医学書を読み、自分で治療に取り組むことになった。当時流行していた寒食散(五石散)などの鉱物性の薬を服用して死にかけるほど苦しみ、回復してからその害を書き記した。なお、晩年には鍼灸についての書をまとめたとされる。この服薬の苦しみは、のちに魯迅が「魏晋の気風および文章と薬および酒の関係」の中で取り上げている。
著作は多く、256年から260年の曹魏の末ごろに『鍼灸甲乙経』をまとめた。『黄帝内経』の「素問」、「鍼経」、『明堂孔穴鍼灸治要』の三つを土台に、これまでに書かれた鍼灸の諸文献を編んだもので、12巻、のちに128章に分けられ、鍼灸に関する基本的な書として現存最古であり、鍼灸と灸治の体系的な最初期の業績の一つで、きわめて大きな影響を与えたとされる。前半の6巻では十二の経脈や三焦などを論じ、664の経穴の名を挙げて、そのうち349について施術の方法を示し、脈診の基本も述べる。さまざまな種類の針についても記し、鍼灸によって経路を通じさせ、気がとどこおりなく流れるようにできると説いている。後半の6巻は臨床にあてられ、さまざまな病、外科、婦人科、小児科を扱う。唐の時代には公的な医学の教科書となり、のちには日本で最も読まれた医書となり、現在も世界の鍼灸教育に欠かせない内容だとされる。文学の面でも、詩、頌歌、賛歌、評論といった多くの作品を残した。ほかに、天地開闢から三国時代の魏末までの王統を記した全十巻の『帝王世紀』、『玄晏春秋』、隠者や高潔の士を集めた『高士伝』、『列女伝』、隠者の伝記である『逸士伝』などがある。このうち完全な形で伝わるのは『高士伝』だけだとされる。『隋書』経籍志は、暦算の書や寒食散の処方書、『鬼谷子』の注も皇甫謐の著としている。大部分は失われたが、逸文はしばしば他の書に引用されて残っている。
同じ年に亡くなった人物
- Theognostus of Alexandria (282年没)
- プロブス (282年没)
- 賈充 (282年没)
- Pope Maximus of Alexandria (282年没)
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