伝記
アイルトン・セナ・ダ・シルバは、1960年3月21日にブラジルのサンパウロで生まれたレーシングドライバーである。1988年、1990年、1991年と、F1世界選手権で計3度ワールドチャンピオンを獲得し、F1史を代表するドライバーの一人とされる。地主で工場経営者でもあった資産家ミルトン・ダ・シルバとその妻ネイジ・セナ・ダ・シルバの長男で、姉ヴィヴィアーニと弟レオナルドがいた。人生の最初の4年間は母方の祖父ジョアン・セナの家で過ごし、両親からは「ベコ」の愛称で呼ばれた。運動神経に優れ、体操などを得意としたが、幼いころは運動協調性に問題があり、3歳でも階段を登るのが苦手だった。脳波を調べても異常はなかったという。自動車に興味を持ったのは4歳のときで、7歳で家族の農場のジープを運転し、クラッチを使わずにギアを替える方法を覚えた。
最初のレーシングカートは父ミルトンが自作したもので、1馬力の芝刈り機用エンジンを積んでいた。13歳でインテルラゴス・サーキットの競技会に初参加し、先頭から出て年上の相手を抑えてレースの大半をリードしたが、最後は接触されてリタイアした。1977年に南アメリカ・カート選手権を制し、1978年から1982年には世界カート選手権に出て、1979年と1980年にはランキング2位となっている。1978年には日本のジャパンカートレースに参戦するため来日し、4位に入った。同年のチームメイトは、のちに最も対戦を楽しめた相手として名前を挙げられた。1980年のシーズンオフには幼なじみのリリアンと結婚した。
1981年2月、妻とともにイギリスへ渡ってフォーミュラ・フォード1600の二つのシリーズでチャンピオンとなった。しかし家業を手伝うよう求める両親の圧力もあり、いったん引退を表明してブラジルへ帰った。レースへの思いは冷めず、ブラジルでの暮らしを望む妻と合意のうえで離婚し、1982年2月に単身で再びイギリスへ渡った。この年はフォーミュラ・フォード2000でイギリスとヨーロッパの両選手権を制した。1983年にはイギリスF3選手権に参戦し、前半の連勝で首位を独走したが、後半にマーティン・ブランドルが差を詰め、険悪になるほどの激しい争いの末に僅差で王者となった。20戦12勝は当時の最多勝記録だった。マカオGPも二つのヒートを制して優勝している。このころから、父方の姓ダ・シルバではなく、母方の姓セナを名乗るようになった。
F1では、ブラバムとの交渉がスポンサーの意向で流れたあと、トールマンと契約して1984年にデビューした。大雨でハーフレースとなったモナコGPでは予選13位から追い上げて2位となり、チームと自身にF1初の表彰台をもたらした。同年に3度表彰台に立ち、ランキングは9位だった。シーズン途中でロータス移籍を発表して二重契約が問題となり、違約金と1戦の出走禁止という条件で移籍が実現した。1985年にはロータスで第2戦ポルトガルGPの豪雨の中、初のポールポジションから独走してF1初優勝を果たした。1986年にはロータスの第一のドライバーとなり、スペインGPでマンセルを0.014秒差で抑えて勝った。1987年には、セナの要望を受けたチームがホンダのエンジンを獲得し、日本人の中嶋悟が新人として加わった。生涯で計65回のポールポジションを獲得し、この記録は2006年にミハエル・シューマッハが更新するまで歴代1位であった。セナは1994年5月1日に死去した。
同じ年に亡くなった人物
- キャメロン・ミッチェル (俳優) (1994年没)
- ウィリアム・ウィルソン・モーガン (1994年没)
- アニタ・モリス (1994年没)
- ロベール・ドアノー (1994年没)
- プーミ・ウォンウィチット (1994年没)
同じ地域に関係する人物
- Giacomo Luigi Ciamician (1922年没)
- ジャコモ・アントニオ・ペルティ (1756年没)
- マルカントニオ・ライモンディ (1534年没)
- Charles, Prince of Hohenzollern-Sigmaringen (1853年没)
- フェリーチェ・バチョッキ (1841年没)