伝記
孫皓(そん こう)は、三国時代の呉の第4代皇帝である。祖父は初代皇帝の孫権、父は孫権の第3子で皇太子に立てられながら廃された南陽王の孫和にあたる。赤烏5年(242年)に孫和の長男として生まれると、孫権は喜んで彭祖という名を与えた。建興2年(253年)、長沙に押し込められていた孫和は、孫峻と全公主(孫魯班)によって新都郡へ強制移住させられたうえ自殺を命じられ、正妻の張妃とともに命を絶った。孫皓は異母弟たちや生母の何氏に育てられた。
永安元年(258年)、孫休の時代に烏程侯に封じられ、任地で人相見から高貴な身分に昇ると告げられて内心喜んだが、人には漏らさなかった。このころ滕芳蘭を妻に迎えている。永安7年(264年)に孫休が死去すると、蜀が魏に滅ぼされ、交阯も魏に離反するという厳しい情勢の中で、立派な指導者が求められていた。烏程県令を務め孫皓と親しかった万彧が「長沙桓王(孫策)の再来で、法を守り学問を好む」と称賛して丞相の濮陽興と左将軍の張布に働きかけ、二人が朱太后の承諾を得て、孫皓は23歳で即位した。元興と改元し、大赦を行っている。
即位当初は、官の倉庫を開いて貧民を救い、官女を解放して妻のない者に娶らせ、御苑の鳥獣を放つなどの政治を行い、明君と称されたこともあるという。しかしやがて粗暴で驕慢になり、小心で猜疑心が強く、酒と女を好むようになったため、地位の上下を問わず人々は失望した。濮陽興と張布は擁立を後悔したが、それを讒言する者がいて、同年11月に二人とも誅殺された。翌265年には、景皇后となった朱氏を迫害して死に追いやり、孫休の4人の子のうち年長の2人を殺害した。魏への使者に同行させた徐紹が魏を賞賛していると聞くと、途中で呼び戻して殺した。同年には武昌へ遷都したが、266年には建業へ戻した。
その後も、孫皓の治世は殺伐とした出来事が続く。愛妾の使いを法に従って処刑した寵臣の陳声を、別のことにかこつけて捕らえ、焼いた鋸で首を斬り、遺体を四望山に捨てさせた。対外では、268年に交阯へ送った軍が晋の将に敗れて将軍の劉俊らが戦死したが、271年には虞汜と陶璜が交阯を陥落させ、九真郡と日南郡も呉に服属した。272年、西陵督の歩闡が晋に降ると、陸抗が城を囲み、歩闡と加担した数十人は三族皆殺しとなった。符瑞の報告が相次ぐと、そのたびに大赦や改元を行い、276年には国山で封禅を行わせた。279年に交州で郭馬が反乱を起こし、同年11月、晋が呉に侵攻を始めた。
天紀4年(280年)、晋軍に各地で大敗し、丞相の張悌ら多くが戦死した。陶濬は最後の抵抗を願い出たが、出撃の前日に兵士が皆逃亡した。孫皓は薛瑩と胡沖の勧めで降伏を決め、3月15日、皇太子の孫瑾ら21人を率いて、建業に迫った王濬の軍門に赴いた。両手を後ろ手に縛り棺を持参する亡国の礼を取ったが、王濬は縄を解き、棺を焼き捨てて本陣に招いた。孫皓は晋の都に送られ、帰命侯に任じられた。太康5年(284年)12月、洛陽で42歳で死去し、河南県の邙山に葬られた。滕皇后は個人的に哀悼の文を書き、悲しみに満ちた内容だったという。呉滅亡後も孫氏一族は西晋に仕え続け、孫秀は伏波将軍、孫楷は度遼将軍に降格されたが、のちの西晋末でも活躍した。孫皓の子の孫充は八王の乱で反乱軍から呉王に祭り上げられたのち殺され、東晋の時代には孫璠が元帝に謀反を起こして鎮圧され殺された。
同じ年に亡くなった人物
- 杜預 (284年没)
- アレクサンドリアのディオファントス (284年)
- 味鄒尼師今 (284年没)
- ヌメリアヌス (284年没)
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