HISTORICAL PERSON · 284年没

杜預

三国時代から西晋の政治家・武将・学者。度支尚書として新兵器の開発や農政の安定、富平津の架橋を進めて「杜武庫」と称され、280年に呉を攻め滅ぼした。『春秋経伝集解』の著者。

生涯
284年没
死亡地
中華人民共和国(河南省 / 鄧州市)
出生地
後趙(長安)
出典
世界地図
中華人民共和国(河南省)

伝記

杜預(とよ)は、三国時代から西晋にかけての政治家・武将・学者である。222年に生まれ、284年に没した。字は元凱、諡は成。京兆尹杜陵県(現在の陝西省西安市雁塔区)の人で、祖父は杜畿、父は杜恕、妻は司馬懿の娘の高陸公主である。祖父が魏の尚書僕射、父が幽州刺史という名門に生まれたが、父は岳父の司馬懿と折り合いが悪く、ついには幽閉されて死んだ。このため杜預も長く不遇をかこった。のちに義兄の司馬昭が当主になると、妹婿の杜預は尚書郎となり、父祖の爵位である豊楽亭侯を継いだ。

263年の蜀漢攻略には鎮西長史として従軍した。鍾会が反乱を起こしたとき、同僚が軒並み罰せられる中で、杜預は計画に加わらなかったことを証明して処罰を免れた。鄧艾を尊敬していたため、鄧艾を殺した衛瓘や田続を厳しく非難したという。賈充らと律令の制定にあたり、その注解を担当した。泰始年間には官吏の人事評価について意見を述べたが、これを不満とした司隷校尉の石鑒に職を免じられた。のち異民族が隴右を侵すと安西軍司として派遣されたが、春まで進軍を待つべきだと述べて石鑒の怒りを買い、檻車で護送された。夫人が司馬炎の叔母にあたることから、爵位で罪を贖うことで決着し、その後の隴右の情勢が杜預の言葉どおりになると、戦略に明るいと評判になった。

匈奴の劉猛が反乱を起こすと度支尚書に任じられ、常平倉の設置などで農政を安定させ、税制を整えた。のちに再び度支尚書となると、船の転覆が相次いだ孟津の富平津に橋を架けることを上奏した。朝議では歴代の聖賢は橋を作らなかったと反対されたが、「舟を造りて橋と為す」とある、すなわち舟橋を作ったのだと反論して実現させた。完成の式典で、武帝は「あなたがいなければ、この橋は建てられなかった」と称えた。その政策は的確で無駄がなく、武器庫のようにあらゆるものが備わっていることから、人々は「杜武庫」と呼んだ。

咸寧4年(278年)冬、病没した羊祜に代わって鎮南将軍・都督荊州諸軍事となり、呉の抑えを務めた。着々と軍備を調え、来襲した呉の西陵督の張政を大敗させた。捕虜を返す離間策を用いると、孫晧は張政を召還して後任を置いた。杜預の上奏が届いたとき、武帝は張華と碁を打っていた。張華が呉を討てば労せずして平定できると述べたので、武帝は討伐を許可した。太康元年(280年)正月、杜預は総司令官として胡奮らと呉討伐に出た。本隊は江陵へ進み、牙門将の周旨らに楽郷城を急襲させ、旗を多く張り、巴山で篝火を焚かせて呉軍の士気をくじいた。孫歆は生け捕りにされ、伍延の偽りの降伏も見抜いて破り、長江上流は平定された。

建業が間近に迫ると、軍議では、気候が温暖になり長雨と疫病の恐れがあるので冬を待つべきだとの意見が出た。杜預は「今、兵威は振るい、譬えるなら竹を割くようなものだ。数節も刀を入れれば、あとは手を使うだけでよい」と答えて進軍を続け、孫晧は間もなく降伏した。この逸話から「破竹の勢い」という故事成語が生まれたという。凱旋後は当陽県侯に進み、食邑は9600戸に及んだ。その後、司隷校尉に任じられたが、63歳で死去し、征南大将軍・開府儀同三司を追贈されて「成」と諡された。武功で知られたが、自身は馬に乗れず、弓も不得意であったという。学問では、種々の経典を修め、特に『春秋左氏伝』を好んだ。武帝に何癖があるかと問われ、「臣には左伝癖があります」と答えたとの逸話が残る。『春秋経伝集解』を著した。また唐の史館が選んだ中国六十四名将の一人にも数えられる。

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