伝記
イツハク・ラビンは、1922年3月1日、イギリス委任統治領パレスチナのエルサレムに生まれたイスラエルの軍人・政治家である。両親は第三次アリヤーと呼ばれる時期にヨーロッパから移住したユダヤ人で、父ネヘミヤは電気会社に勤める電気工、母ローザは会計係を務めながら地域の活動家として働き、のちにテルアビブ市議会の議員にもなった。一家は1923年ごろ、彼が1歳のときにテルアビブへ移り、彼はこの町で育った。父はハガナーの一員でもあった。幼いころは成績がよいのに非常に内気で、頭のよさを知る人は少なかったという。
労働者の子のための学校で農業とシオニズムを学んだのち、1937年に2年制のカドゥーリー農業高校へ進んだ。農業関連の科目で優れた成績を収め、水利技術者になることを志したが、英語は「敵」であるイギリスの言葉として学ぶのを嫌った。1938年にアラブ人の反乱が激しくなるにつれて軍事への関心が高まり、第二次世界大戦が始まって学校が閉鎖されると、ハガナーの活動に身を投じた。1941年にはその戦闘部門パルマッハに加わり、軍人としての道を歩みはじめる。第一次中東戦争では部隊を指揮し、ヨルダン軍などと戦った。その後は軍に残って昇進を重ね、参謀総長として1967年の第三次中東戦争(六日戦争)を指導し、エジプト・ヨルダン・シリアに対するイスラエルの勝利を支えた。
軍を退いたのち、1968年から1973年まで駐米大使を務め、米国との関係が深まる時期に外交の場に立った。1973年に労働党から国会議員に当選して労働大臣となり、1974年、ゴルダ・メイアの辞任を受けて労働党党首、そして首相に就いた。最初の任期で最も劇的な出来事とされるのが1976年のエンテベ空港奇襲作戦で、乗っ取られた旅客機の乗客を救うため、彼の命令で国防軍が遠距離からの秘密の急襲を行い、大きな成功と見なされた。1977年、金銭をめぐる不祥事を受けて首相を辞任した。1984年から1990年までは国防相を務め、この間に起きた第一次インティファーダ、すなわちパレスチナ人の抵抗に強い衝撃を受けたとされる。
1992年に再び首相となり、イスラエルとパレスチナの和平を掲げて政権を担った。1993年にはオスロ合意に調印し、1994年にはヨルダンとの平和条約にも調印した。これらの功績により、ヤーセル・アラファト、シモン・ペレスとともにノーベル平和賞を受けた。一方、合意にはイスラエル国内で多くの抗議デモが起き、彼は議会で過半数を保つかぎり反対を押し切る姿勢を示した。
1995年11月4日、テルアビブで開かれた平和集会に出席した際、和平に反対するユダヤ人青年イガール・アミルに至近距離から撃たれて死去した。73歳であった。暗殺された広場には何十万人ものイスラエル国民が追悼に集まり、若者たちはろうそくをともして平和の歌を歌った。11月6日の葬儀にはクリントン米大統領やムバーラク・エジプト大統領、フセイン・ヨルダン国王ら約80人の各国指導者が参列し、遺体はヘルツルの丘に葬られた。この暗殺によって和平への道は途絶え、その後イスラエル国内の言論は右傾化を強めたと記される。
同じ年に亡くなった人物
- ロラ・フローレス (1995年没)
- ドロシー・ポイントン=ヒル (1995年没)
- フレデリック・ウェスト (1995年没)
- マレー・ロスバード (1995年没)
- マリア・ピア・デ・サクソニア=コブルゴ=ブラガンサ (1995年没)
同じ地域に関係する人物
- イガエル・トゥマルキン (2021年没)
- Hanna Maron (2014年没)
- メナヘム・ゴーラン (2014年没)
- ユヴァル・ネーマン (2006年没)
- ウリ・アブネリ (2018年没)