HISTORICAL PERSON · 1995年没

渡辺正

元サッカー日本代表のFW。メキシコ五輪では交代要員の役割を担い、銅メダル獲得に貢献した。広島で育ち、実家の寺は原爆で被害を受けた。

生涯
1995年没
死亡地
日本(千葉県 / 千葉市)
出生地
日本(広島市)
出典
世界地図
日本(千葉県)

伝記

渡辺正は、1936年1月11日、広島県広島市大手町(現在の中区)に生まれたサッカー選手で、のちにコーチ・監督も務めた。ポジションはFWである。実家は爆心地にあった日蓮宗の本経寺で、原爆で寺に残っていた父を亡くしたが、自身は集団疎開で難を逃れた。終戦後は焼け野原になった町で、壊れた墓石を運ぶ手伝いをさせられ、これが足腰の鍛錬になったという。崇徳高校に進んだが、サッカー部がなかったため、1年の2学期に編入試験を受けて基町高校へ移った。

高校卒業後の1954年、同郷の寺西忠成が率いる八幡製鉄に入った。広島出身者が多く、荒っぽい広島弁の飛び交う「野武士軍団」の中でも渡辺は個性が際立ち、チーム一の酒豪で、毎晩のように繁華街へ繰り出し、泥靴のまま寝床に入ることもしばしばだったという。負けず嫌いな性格から一度は八幡製鉄を退社し、1958年に立教大学へ入学した。2年次の1959年には関東大学リーグと東西学生王座決定戦で優勝を経験し、3年次の1960年、ローマオリンピック予選から日本代表に選ばれた。大学卒業後の1962年に八幡製鉄へ戻り、1960年代前後の黄金期の原動力となって、気性の激しい熱血漢ぶりから「闘将」と呼ばれた。1963年と1964年の全日本実業団選手権で連覇し、1964年の天皇杯では古河電工との両チーム優勝に貢献した。1965年と1967年には主将を務め、1968年には年間優秀11人賞を受けている。

日本代表としては、1964年の東京オリンピックと1968年のメキシコシティオリンピックに続けて出場した。メキシコ大会からは怪我などの理由を伴わない交代が1試合2名まで初めて認められ、日本はこの新ルールを積極的に使い、ウイングの渡辺を現在でいうスーパーサブとして起用して成功した。この大会の日本の9得点のうち7点は釜本邦茂が挙げ、残りの2点が渡辺のものである。1次リーグ2戦目のブラジル戦では、1点を追う後半の終了間近に投入され、杉山隆一の左からのクロスを釜本が競り勝って折り返したところを、ゴール前に詰めていた渡辺がダイレクトボレーで決めて同点とした。この得点がなければ銅メダルもなかったとされる。代表では「そうじゃけんのう」という広島弁をよく使い、デットマール・クラマーがそれを覚えて、ミーティングで選手が緊張するとしばしば口にして皆を笑わせた。松本育夫がガス爆発事故で重傷を負い長く入院したときには、仕事の帰りに毎日見舞って励ました。代表では通算39試合に出場し、国際Aマッチで12得点を記録している。八幡では1968年にコーチを兼任し、1969年からプレイングマネージャーとなって、1971年に現役を退いた。リーグ通算は79試合で19得点である。

引退後は1972年から1975年まで八幡製鉄・新日鐵の監督を務め、1976年には1年だけ総監督となった。日本ユース代表などの監督・コーチも歴任し、1973年のアジアユース大会では、初めて決勝まで進んで準優勝に導いた。木村和司、風間八宏、田嶋幸三、西村昭宏ら若い才能を多く抜擢したことでも知られる。1980年には日本代表監督となったが、就任から5か月で歯の治療中にクモ膜下出血で倒れ、左半身不随になったため、川淵三郎が急遽後任を務めた。懸命なリハビリで半年後には新日鐵東京本社の業務に復帰し、母校・立教大学の監督(1984年から1986年)を経て、1987年からは日本サッカー協会へ出向した。

1995年12月7日、千葉市で心不全のため亡くなった。2006年には日本サッカー殿堂に入った。

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