伝記
ユージン・ポール・ウィグナーは、1902年11月17日にブダペストで生まれたハンガリー出身の物理学者である。ハンガリー名はヴィグネル・イェネー・パールといい、ユダヤ系の家に生まれた。父アントンは皮なめし業を営み、母はエリザベス・エルザ・アインホルンといった。姉にベルタ、妹にマーギットがいる。9歳まで家庭で教師に学び、そのころから数学の問題に関心を持った。11歳のとき結核を疑われて山中の療養所に6週間送られたが、のちに診断は誤りとされた。一家は宗教を実践せず、成人式も世俗的なものだった。1915年から1919年まで父も通ったファソリ福音派ギムナジウムで学び、1年下にジョン・フォン・ノイマンがいた。1919年にはベーラ・クンの共産主義政権を逃れて一時オーストリアに避難し、のちにルター派に改宗している。ウィグナーは後年、その改宗は本質的には宗教上の決断ではなく反共産主義によるものだったと説明した。
1920年にブダペスト工科経済大学に入ったが、授業に満足できず、1921年にベルリン工科専門大学に移って化学工学を学んだ。水曜午後に開かれたドイツ物理学会の討論会にも通い、プランク、ラウエ、ハイゼンベルク、パウリ、アインシュタインらが出席していた。ここで物理学者レオ・シラードと出会い、親友となった。カイザー・ヴィルヘルム研究所ではミヒャエル・ポラニーと知り合い、ポラニーはウィグナーの学位論文「分子の形成と崩壊」を指導した。一度ブダペストに戻って父の製革工場で働いたが、1926年にベルリン工科専門大学の助教授となり、カイザー・ヴィルヘルム物理化学研究所の研究員を兼ねた。その後ゲッティンゲン大学でヒルベルトの助手となり、1927年には、のちにウィグナーのD行列として知られるものを導入して、量子力学における対称性の理論の土台を築いた。
ナチス・ドイツがヨーロッパに勢力を広げると、ユダヤ系であるために迫害を逃れてアメリカ合衆国へ亡命した。1936年にウィスコンシン大学の物理学教授となり、1938年から1971年までプリンストン大学で数学の教授を務めた。同じハンガリー出身のシラードやエドワード・テラーらとともに、ナチス・ドイツの原子爆弾開発の危険をアメリカ政府に訴える活動にかかわり、アインシュタイン名義の大統領宛て書簡の起草にも加わった。マンハッタン計画が始まるとそのメンバーとなり、プルトニウム炉の設計に寄与した。
1927年には、核反応でパリティが保存されることを導いた。1958年に楊振寧と李政道が、ベータ崩壊など弱い力にかかわる反応でパリティが保存されないことを示すまで、物理学の基本的な前提であり続けた。また陽子と中性子を核にまとめる強い力の到達距離が非常に短いことも示した。こうした「原子核と素粒子の理論における対称性の発見」により、1963年にノーベル物理学賞を受けた。ほかにフランクリン・メダルやエンリコ・フェルミ賞、アメリカ国家科学賞などを受け、1978年には彼の名を冠したウィグナー・メダルが設立され、その初回受賞者となった。
晩年は哲学的な傾向を深め、1960年の講演録「自然科学における数学の理不尽な有効性」は、分野を超えて多くの論考を生んだ。1953年には国際理論物理学会のため来日している。妹マーギットは、兄との食事に招いたディラックの妻となった。1995年1月1日、プリンストンで没した。
同じ年に亡くなった人物
- セレーナ (歌手) (1995年没)
- ダグ・マクルーア (1995年没)
- ジョルジュ・カンギレム (1995年没)
- エマニュエル・レヴィナス (1995年没)
- ヴァーツラフ・ノイマン (1995年没)
同じ地域に関係する人物
- セオドア・フリーリングハイゼン (1862年没)
- ジュディス・リッチ・ハリス (2018年没)
- フィービ・スノウ (2011年没)
- グロバー・クリーブランド (1908年没)
- アルフレッド・リコニー (1959年没)