伝記
バハラーム3世は、サーサーン朝の第6代君主(シャーハンシャー)である。バハラーム2世の息子で、その後を継いで王位に就いたが、在位はわずか四カ月ほどとされる短いものに終わった。王位に就く前は、280年代に父が再征服したサカスターンの王を務め、「サカーン・シャー」を名乗っていた。名のバハラームは中期ペルシア語でワラフラーンまたはワフラーンと書き、古代ペルシア語の語に由来する。アヴェスター語では勝利の神ウルスラグナを意味する。サーサーン朝には、皇帝が土地や民族を征服すると、その支配権を示す称号を王子に与える慣例があった。バハラーム3世も、父が地方の反乱を鎮圧した後にこの称号を得たとみられる。また、初期の王朝には封土を王子に与える慣例もあり、東部辺境を守る戦略上の要地サカスターンを与えられた。
293年にバハラーム2世が没すると、ワフナーンの率いる貴族たちと、メセネ王アードゥルファッローバイの支援を受け、ファールス地方で王位が宣言された。当時はまだ未成年だったとされる。パイクリ碑文によれば、ワフナーンは私欲のために彼を擁立したという。しかし擁立した一派を除く多くの貴族は、ローマ帝国などの外敵の侵攻に対処できない軟弱な王だと考え、継承に異議を唱えた。そして、シャープール1世の息子で、彼から見れば大叔父にあたる「アルメニア大王」ナルセに忠誠を誓った。貴族たちは、ナルセがサーサーン朝に繁栄をもたらす強い指導者だと期待したのである。
統治が始まって数カ月後、ナルセは貴族たちの要請でメソポタミアに召喚された。パイクリで貴族たちと会い、王に任命された。のちにナルセは、パイクリに塔を建てて出迎えた貴族の名を刻ませている。碑文には、スーレーン家やヴァラーズ家というパルティア系の有力貴族や、ゾロアスター教の神官カルティールらがナルセを支持したことが見える。アルメニア大王としての権限、ゾロアスター教の保護者として帝国の調和と繁栄を保証する者という印象、そして初期の君主と血統が近いことが、支持の理由とされる。
ナルセは流血を避けるため、バハラーム3世とワフナーンに和平を提案した。戦闘の記録が残らないことから、受け入れられたとみられ、支持者の多くが脱走したことも背景にあったかもしれない。ワフナーンは、ナルセが首都クテシフォンに入城したときに処刑された。バハラーム3世は退位して命は助かったともいわれるが、捕らえられたか殺されたともいわれ、消息は分かっていない。ナルセは貴族を招集して投票を行い、簒奪者ではなく正統な統治者だという承認を得た。この儀式は初代アルダシール1世の時代から行われてきたもので、多数決の結果、ナルセが「神々の助けを得て、祖先の名のもとに、父祖たちの王位に就く」ことが保証された。
バハラーム3世のものとされた硬貨の多くは数が少なく、現在ではナルセのものとみなされている。ビシャプールには、馬に踏みつけられる人物を描いたレリーフがあり、バハラーム3世かワフナーンの死を表すと考えられている。硬貨の意匠では、下縁にぎざぎざのある金の王冠を戴き、両側に大きな鹿の角が付いた姿が描かれ、王冠の前面の角のあいだにサーサーン球が置かれるとされる。先のビシャプールのレリーフはバハラーム1世の即位を描いたものの名を書き換え、ワフナーンを加えたもので、バハラーム1世以降の王を否定する意思が読み取れるとされる。