HISTORICAL PERSON · 408年没

アルカディウス

東ローマ帝国テオドシウス王朝の初代皇帝で、テオドシウス1世の長男。395年に父から帝国の東半分を継いだ。政治に関心を示さず実務は有力者が担い、404年に皇后の讒言でクリュソストモスを追放した。

生涯
408年没
死亡地
トルコ共和国(イスタンブール県 / コンスタンティノープル)
出生地
古代ローマ(ヒスパニア)
出典
世界地図
トルコ共和国(イスタンブール県)

伝記

アルカディウスは、東ローマ帝国テオドシウス王朝の初代皇帝である。377年1月1日にスペインで生まれ、408年5月1日に没した。ローマ皇帝テオドシウス1世の長男で、母は父の最初の妻アエリア・フラッキラである。父も母もスペインの生まれで、彼が生まれたのは、父がまだ西方の皇帝グラティアヌスに招かれて東方の皇帝の後を継ぐ前だったとされる。母は次男ホノリウスを産んだのち、385年か386年ごろに世を去った。

383年、まだ幼いうちに東方の正帝に立てられた。ただし、成人して実際に統治を始めたのは395年1月17日以降とされる。最初の教育係には、異教徒の修辞学者で、のちにコンスタンティノポリスの長官となるテミスティオスと、スケティスの修道士アルセニオスがいた。395年、テオドシウス1世は、長男に帝国の東半分を、次男ホノリウスに西半分を継がせた。激化していた民族移動の時代に、兄弟が皇位を争って対応できなくなることを恐れ、分割して統治させようとしたのである。これによって、ローマ帝国は再び東西に二分された。

この即位の背景には、西方の動乱がある。383年にグラティアヌスが簒奪者マグヌス・マクシムスに殺され、マクシムスがイタリアに侵入すると、ミラノにいた宮廷はテオドシウスの治める東方のテサロニケへ逃れた。テオドシウスは援助を約束し、出陣に先立って長男を帝位の共同者とし、東方と、イリュリクムの親衛隊長官の職を委ねたという。テオドシウスはマクシムスを破ったのち、さらに簒奪者エウゲニウスにも勝って、ローマ帝国全体を単独で治めた最後の皇帝となった。

当時のローマ人は、この分割が、再統一されることのない完全な分裂だとは思っていなかった。それまでにも何度か分割統治が行われていたからで、「東西分裂」という呼び方は、二度と統一されなかったことを知る後世の者のものにすぎない。父の死のとき、アルカディウスは17歳か18歳、ホノリウスは7歳であり、二人とも若すぎる年齢で権力を継ぐことになった。

アルカディウスは、弟と同じく無能で、政治に全く関心を示さなかったと評される。また、身体の外見に恵まれず、性格は弱く、優柔不断で、次々に現れる権力者や、皇后アエリア・エウドクシアに支配されたともいわれる。ギリシア人の哲学者シュネシオスは、彼をクラゲにたとえたという。在位中には、395年にアラリック率いる西ゴート族がバルカンで反乱を起こし、また、フン族がシリアや小アジアを荒らした。それでも、フラウィウス・アンテミウスら有力者が実際の政務を取り仕切ったため、帝国が揺らぐことはなかったといわれる。

彼の治世でよく知られるのは、404年に、皇后の讒言を受けて、名説教家として名高いコンスタンティノポリス大主教ヨハネス・クリュソストモスを地位から追放したことである。大主教が皇后を、夫に代わって振る舞い、豪奢を見せびらかしていると非難したことが発端で、争いはローマの教皇にまで及び、東西の間の緊張を高めた。最後の親衛隊長官アンテミウスが東西の関係の修復に努める一方で、アルカディウス自身は公の場から身を引き、408年に亡くなった。帝位は息子のテオドシウス2世が継いだ。

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