伝記
烽上王は、高句麗の第14代の王(在位292年-300年)である。姓は高、諱は相夫、あるいは歃矢婁ともいい、雉葛王とも記される。生年は不詳で、先代の西川王の子にあたる。年次は不明ながら太子に立てられており、292年に先王が没すると、太子として王位に就いた。祖父は中川王、母は烏氏の出とされ、妃については名が伝わらない。若いころから傲慢で放縦、猜疑心と嫉妬心が強い人物だったともいわれる。
即位の直後、烽上王は叔父にあたる安国君達賈を謀殺した。達賈は西川王の弟で、先王の時代に粛慎の侵攻を退けた功績があり、民にも人望があったが、王はその人望を恐れたのである。さらに、弟の咄固に叛意があると決めつけて死を賜い、その子の乙弗、後の美川王をも捜し出して殺そうとした。弟の処分は鮮卑の侵攻を退けた翌月のことで、王は弟が自分に背くのではないかと恐れたのだという。乙弗は難を逃れて身を隠し、命を保った。こうした振る舞いは、民の心を王から遠ざけるものとなった。
一方、対外面では度重なる鮮卑の侵入に直面した。293年8月、鮮卑の慕容廆が攻め込むと、王は新城の方角へ逃れたものの、追撃を受けて危うく捕らえられそうになった。鮮卑は当時、南満州で勢力を張っていた遊牧の民である。このとき新城の長官で北部の小兄であった高奴子が五百騎を率いて駆けつけ、奮戦して慕容廆の軍を敗走させた。王はその功を認めて高奴子に大兄の官位を加え、鵠林の地を食邑として与えた。296年8月に慕容廆が再び侵攻し、故国原で西川王の墓をあばかせたが、墓をあばいた者の中に突然死ぬ者が出るなど怪異が続いたため、これを恐れて退却したとされる。王は侵入を防ぐために高奴子を新城太守に登用し、高奴子が善政を敷いて威勢を広めると、鮮卑は攻めてこなくなった。能力のある者を用いて防衛に成功した点は、王の治績といえる。
しかし晩年の王は、国民の苦しみに目を向けなかった。296年の侵攻の翌月には強い霜と雹が降って作物が傷み、298年にも不作と飢饉が国を襲った。翌年には五か月にわたって雨が降らず、飢えた人々が人を食うほどの事態になったともいわれる。それでも王は新しい宮殿の造営に莫大な費用を費やし、贅沢にふけった。300年には、15歳以上の男女を国中から集めて宮殿の改築に当たらせたとされる。食物にも事欠き、重い労役に苦しんだ民は、各地で逃げ散り始めた。天災が続いて民が飢えているにもかかわらず、宮殿の増築と修復のために人々を使役したのである。国相の倉助利らが強く諫めると、王は「王たるものが富貴を楽しまなくてどうするか。国相のお前は、民のために死ぬことを望んでいるのか」と開き直ったという。苦役を逃れて他国へ去る者も出た。
倉助利は自分が害されることを恐れ、群臣とともに王を廃し、下野していた乙弗を招いて王位につけようと謀った。逃れていた乙弗は、叔父の追及を避けて辺鄙な村に身を隠していたとされる。事を悟った烽上王は、死を免れないと知り、300年8月に自ら縊死した。二人の王子もまた自殺した。王は烽山の原に葬られ、烽上王と諡された。群臣は身を隠していた王子を捜し出して新しい王に据えた。それが、烽上王に死を賜った弟の咄固の子である乙弗で、のちの美川王である。こうして292年に始まった烽上王の治世は、300年に幕を閉じた。国を守る功臣を登用しながら、王族や民には苛烈であった王の末路であった。
同じ年に亡くなった人物
- Commodian (300年没)
- ヴァレリウス・エウティキアヌス (300年没)
- アキレウス・タティウス (300年(推定))
- アメリオス (300年没)
- Austromoine (300年没)
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