伝記
フランソワ・ミッテランは、1916年10月26日にシャラント県ジャルナックのカトリックの家庭に生まれ、1996年1月8日に亡くなったフランスの政治家である。第21代大統領を1981年5月21日から1995年5月17日まで務め、国民議会議員、司法大臣、内務大臣も歴任した。
父ジョゼフは鉄道会社に勤めてアングレーム駅長となり、のちに岳父が所有する酢製造所の経営を引き継いで、全国酢製造業者連合の会長も務めた。青年期は右派に属し、1934年から極右の運動に参加して、外国人排斥や王制復古を唱えていた政治組織クロア・ド・フーに所属した。同年にバカロレアを取得し、パリ大学の文学部と法学部で学んで、1937年に自由政治科学学院を修了し、公法の修士号も得た。
1939年9月、大戦の勃発で召集され、負傷してドイツ軍の捕虜となったが、1941年12月に脱走してフランスへ帰還した。1942年6月からはペタンを首班とするヴィシー政権のもとで働き、1943年8月には戦前の国家主義的な活動やヴィシー政権への傾倒ぶりが認められて勲章を授けられた。ところが同年12月にはレジスタンスに加わって地下で活動し、ロンドンへ逃れた。1944年にはド・ゴールの臨時政府に参加し、同年10月にはレジスタンスの同志ダニエルと結婚して三男をもうけた。
1946年11月にニエーヴル県選出の国民議会議員となり、植民地相、国務相、法相などを歴任して、第四共和政の10年余りをほぼ閣僚として過ごした。この間、アルジェリア戦争が始まると、国民議会で厳しい発言をして鎮圧を図ったとされる。1965年12月には左派統一候補として大統領選挙に挑み、ド・ゴールに敗れたものの、決選投票で44.80パーセントの票を得た。1971年に社会党第一書記となり、1974年の選挙でも決選投票に進んだが、49.19パーセントでジスカール・デスタンに僅差で惜敗した。
1981年の大統領選挙で再びジスカール・デスタンと争い、51.76パーセントの票を得て勝利した。共産党との連立でモーロワ内閣をつくり、有給休暇の拡大、法定労働時間の削減、放送の自由化、死刑制度の公式廃止などを行い、私企業の国有化も進めた。このため多くの企業家が国外へ出る事態となった。翌1982年にはインフレと失業の増加に直面し、賃金を凍結して公共支出を削るなど緊縮財政に転じ、1984年に共産党は連立を離脱した。1986年の総選挙で社会党が大敗し、右派のシラクが首相に就く第1次コアビタシオンとなったが、1988年にはシラクを破って再選された。1991年5月には、エディット・クレッソンをフランス史上初の女性首相に抜擢した。ドイツのコール首相とともに、欧州連合とユーロの創設を主導し、マーストリヒト条約を1992年2月に署名した。
1995年5月に2期14年の任期を終えて退任し、翌年、前立腺癌のためパリの自宅で亡くなった。主治医は死後に著書を出し、ミッテランが任期の大部分を癌の治療を続けながら務め、病状は公には伏せられていたと述べた。家族は主治医と出版社を訴えている。文人政治家として知られ、近年はフランス最後の「国父」として再評価されている。
同じ年に亡くなった人物
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- ヤキ・カダフィ (1996年没)
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- セメレーニ・オスヴァルド (1996年没)
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