HISTORICAL PERSON · 300年没

ファスティダ

3世紀のゲピド族の王。西ゴート族との戦いに敗れ、その戦いはヨルダネスの『ゲティカ』に記された。名前が伝わる最初のゲピド王である。

生涯
300年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ファスティダは、3世紀のゲピド族の王である。名前が伝わる最初のゲピド王とされ、ドナウ川流域、現在のルーマニアにあたる地域を治めていたと考えられている。その事績は、ゴート系のラテン語歴史家ヨルダネスの『ゲティカ』によって知られる。

『ゲティカ』によれば、ファスティダは動きの鈍い自らの部族を奮い立たせ、武力で故国の境界を広げた。近隣のブルグント族をほとんど滅ぼし、ほかの多くの部族も従えたという。ゲピド族の領土は「暗い山々と深い森」に閉ざされていたといい、ファスティダは成功に勇気づけられ、領土を広げようと望んだ。そこで、血縁の同盟を破って、ゴート族の王オストロゴタのもとへ使者を送り、土地の一部を譲るか、さもなければ戦いに備えるよう求めた。ゴート族の王に断られて戦いとなり、ゲピド族とゴート系の諸部族との戦いは決着がつかず、ファスティダは軍勢を率いて自国へ引き揚げたと、ある記述は述べる。ガルティスの町の近く、おそらくオルト川とされるアウハ川のほとりで、両軍の戦いがあったという。ファスティダは、険しく山がちで森の多い、おそらくカルパティア地方にあった自国を狭すぎると見て、ダキアの一部を手に入れようとしたとされる。一方、別の記述では、ハスディンギ族と同盟したファスティダが、ゴート族とその同盟者であるタイファリ族に敗れたとされる。また、ゴート族に敗れたとだけ記す事典もある。いずれにせよ、この戦いの結果は、ファスティダの側の後退や敗北として描かれている。ヨルダネスは6世紀の歴史家である。ファスティダが使者を送ったオストロゴタは、ゴート族の王であり、ここでは東西のゴート族を治める王として登場する。

この戦いがいつ起きたかについては、見方が分かれる。249年ごろとする説がある。しかし、290年か291年ごろとするほうが同じくらいありうるともいわれる。ディオクレティアヌス帝(在位284〜305年)と共同皇帝マクシミアヌス(在位285〜310年)の働きかけがあったためで、マクシミアヌスは291年に書かれた公式の演説で、ドナウ川流域のゲルマン系諸部族のあいだに争いをあおる策を採ったと述べている。ファスティダがマクシミアヌスに操られ、戦いへと押しやられた可能性も指摘されている。

この仮説を補うものとして、ファスティダの治世に鋳造された二枚の金貨がある。同じ内容を示すもので、おそらくファスティダに与えられたものであり、ルーマニアのシムレウ・シルバニエイで発見された財宝のうち、最も古い部分をなすと考えられている。

ロシアの歴史家スクルジンスカヤは、ヨルダネスがブルグント族をほぼ全滅させたと述べているのは明らかな誤りだとする。ブルグント族はその後の出来事でも繰り返し言及されるからである。「ほかの多くの部族」としてはヴィストゥラ川流域やカルパティア山麓に住んでいたヴェネト族が想定され、ゲピド族が3世紀半ばにその土地を通り過ぎたと考えられる。ゴート族との不首尾な戦いは290年ごろだったとも述べる。またシャーロフとバジャンは、ここで言うブルグント族は、のちにゲピド族とともに黒海へ移った東ブルグント族であろうと見ている。ゲピド王としてはファスティダの名が最初に伝わり、のちの王としてゲベリクやウィシマルの名が挙げられる。ヨルダネスの『ゲティカ』の97節から100節にこの戦いの記述がある。没年は300年とされる。

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