伝記
フェラ・クティは、1938年10月15日、ナイジェリアのアベオクタに、フェラ・ランサム=クティとして生まれた。父は牧師で教師、音楽家でもあったキャノン・I・O・ランサム=クティで、母は民族主義運動に関わった活動家だった。経済的には中の上の家庭で、両親の影響で若いころは医学を学んだが、比較的早い時期に音楽の道を志すようになった。
1958年、ロンドンのトリニティ音楽大学に単身で留学した。在学中にトランペットを身につけ、友人たちとクーラ・ロビトスというバンドを結成している。この時期に黒人差別を身をもって体験したことが、彼に生涯にわたる深い影響を残したとされる。1963年に大学を卒業し、21歳で結婚した3歳年下の女性とともにナイジェリアへ帰国した。クーラ・ロビトスを率いて本格的に活動を始めたが、音楽を愛好する富裕層が国内に少なかったこともあって、金銭面では苦戦が続き、ガーナへのツアーにも出た。当時は流行のハイライフ・ジャズを演奏した。1968年、アメリカツアーに向けた記者会見の場で、自らの音楽を「アフロビート」と定義した。翌1969年のアメリカ滞在では、アフリカの音楽は聴衆の関心を集めず、マネジメントにも恵まれなかった。労働許可証を持っていなかったため移民局に目をつけられ、メンバーの一部が離れるなど辛酸をなめた。ここでも差別に直面して、マルコムXやブラックパンサー党について学びはじめ、音楽はアフリカの土着音楽とファンクの融合へ、そして政治的な主張を重んじるものへと変わっていった。
1970年にナイジェリアへ戻り、「アフロ・スポット」と名づけた会場を拠点にバンド名をアフリカ70に改め、聴衆を獲得した。会場はのちに「アフリカ・シュライン」と呼ばれ、フェラの活動の本拠地、聖地として名高い。主張は黒人の解放に加えてパン・アフリカニズムの実現にまで及び、これに対する富裕層からの圧迫も強まった。1974年、警察は大麻所持と未成年者誘拐の容疑でフェラを逮捕してカラクタ監房に2週間拘置したが、大麻所持は証明されず、女性は成年で自分の意思で家を出たことが明らかになって釈放された。帰宅後、自宅の周囲を高さ4メートルの有刺鉄線で囲み、「カラクタ共和国」と名づけた。そこで志を同じくする仲間と共同生活を営み、国家との対立を深めた。1975年には、再び逮捕された経験をもとにしたアルバム『エクスペンスィヴ・シット』と、カラクタ共和国が警察に襲われて負傷した経験をもとにした『カラクタ・ショー』を発表し、ヒットさせた。政府に疎まれて合わせて12回逮捕されたが、そのつど証拠不十分で釈放されたという。
1976年、白人に強いられたキリスト教の洗礼名「ランサム」を捨て、フェラ・アニクラポ・クティと改名した。アニクラポは「死を操れる者」の意味とされる。軍隊をゾンビにたとえた代表作『ゾンビ』も同年の作品である。1977年に1,000人の軍隊が共和国を襲撃して建物は焼かれ、77歳だった母フンミラヨは、このとき受けた傷がもとで翌年に亡くなった。1981年にはバンド名をエジプト80と改め。1984年に為替管理違反で懲役10年の実刑判決を受けたが、宣告した裁判官自身が圧力による不当な判決だったと公表し、国際的な支援運動も起きて1986年に釈放された。1980年代には体調不良や意欲の低下で活動が停滞した。1997年8月2日、エイズの合併症により58歳で亡くなった。アフロビートは息子のフェミ・クティや、腹違いのシェウン・クティ、トニー・アレンらに受け継がれている。
同じ年に亡くなった人物
- シュテファン・ヘルムリン (1997年没)
- ワーナー・アスペンストローム (1997年没)
- ラミロ・カスティージョ (1997年没)
- マイケル・ヘッジス (1997年没)
- Erich Eliskases (1997年没)
同じ地域に関係する人物
- モハメド・シアド・バーレ (1995年没)