伝記
モハメド・シアド・バーレは、ソマリアの軍人、政治家である。1969年から1991年までソマリアの第3代大統領を務め、アフリカ統一機構の第13代議長にもなった。1919年10月6日に生まれたとされるが、当時のソマリアに出生記録はなく、生年を1909年から1921年とする推測もある。生地は、エチオピアのオガデン地方にあるシラボともいわれ、公式の記録ではソマリア南西部ゲド地方のガルバハレとされる。遊牧民の家に生まれ、父はマレハン族、母はオガデン族の出身で、いずれも大きなダロット氏族に属した。ソマリ人が出生地を隠してイタリア領の軍や警察に入った例は多く、バーレもそうして入隊できたとされる。
軍歴の始まりについては、16歳で当時の植民地支配国イタリアの軍に入ったとする記述と、1941年、20歳のころ英国軍の管理下の警察に加わったとする記述がある。いずれにせよ優秀で、1950年にイタリアへ統治が戻る時点で、現地出身者が昇れる最高位の警察監察官に達した。1953年にはイタリアでの士官訓練コースに選ばれ、最終試験を首席で修めて中尉に任じられた。1965年にソマリア陸軍の司令官に就き、1969年には少将になっていた。1960年に独立したソマリアは、氏族関係が政党政治に色濃く反映されて60を超える小政党が乱立し、人事や汚職への不満が国民の間で渦巻いていた。
1969年10月15日にシェルマルケ大統領が暗殺されると、バーレはこの機にクーデターを決行し、10月21日に軍が首都モガディシュを制圧した。11月1日には自らが議長となる最高革命評議会を設け、憲法を停止して実権を握り、科学的社会主義への転換を発表して、国名をソマリア民主共和国に改めた。シェルマルケを暗殺した犯人は、冷遇されていた氏族の出身の警備員だったが、背後にバーレがいたとする説は今も根強い。政権の初期には、銀行の国有化、牧畜の重視、ソマリ語のラテン文字による表記の導入、男女平等の推進などを進めたが、部族社会の伝統を考えない急進的な改革は大半が失敗した。
何度かのクーデターや暗殺未遂もあって猜疑心を強め、1975年には新民法に反対したイスラム教指導者10人を処刑し、1976年にソマリ社会主義革命党を作って自ら議長となり、一党独裁を築いた。重要な地位はマレハン族、オガデン族、ダルバハンテ族に占められ、他の氏族の反発を招いた。1977年に始まったオガデン戦争で敗れると、ソ連とキューバの軍事顧問団を追放して東側と断交し、アメリカなど西側に近づいて、1980年には米軍にベルベラ港と空軍基地の使用を許した。敗戦後、権威は失墜し、冷遇された氏族を中心に反政府組織が次々と結成された。1988年には、イサック族の拠点ハルゲイサとブラオを軍が攻撃し、事態は内戦化した。1989年7月には首都で約2,000人の反政府活動家を逮捕し、人権侵害を理由に1990年に海外の援助が止まった。
1990年末、アイディード将軍の率いる統一ソマリ会議が首都を制圧してバーレを追放した。首都の奪回を二度ほど企てたが失敗し、ケニアを経てナイジェリアに亡命した。1995年1月2日、ラゴスで心臓発作により亡くなり、遺体はゲド州に葬られた。失脚後もソマリアは内戦が続き、北部のソマリランドが独立を宣言するなど、統一は実現していない。
同じ年に亡くなった人物
- エドワード・バーネイズ (1995年没)
- ジョルジュ・J・F・ケーラー (1995年没)
- メフディー・バーザルガーン (1995年没)
- ジョルジュ・キャンディリス (1995年没)
- アイダ・ルピノ (1995年没)
同じ地域に関係する人物
- フェラ・クティ (1997年没)