伝記
クライド・ウィリアム・トンボーは、1906年2月4日にイリノイ州ストリーターで生まれたアメリカの天文学者で、1930年に冥王星を発見したことで知られる。ペンシルベニア・ダッチの血を引く農夫ミュロン・トンボーと妻アデラ・パール・クリットンの長男で、六人きょうだいの最年長だった。12歳だった1918年にウィスコンシン州のヤーキス天文台を訪れたことが天文への関心の始まりらしく、アマチュア天文家だった叔父リーが望遠鏡を使い、天文の本を何冊か贈ってくれたことも刺激になった。
農場は悪天候と1921年のトウモロコシの不作で苦しく、一家は1922年にカンザス州バーデットの農場に移った。急ぎの農作業のためトンボーは高校を1年休んで父を手伝い、1925年に卒業した。大学進学を志したが、1928年6月に雹の嵐で家族の農場の作物がだめになり、断念せざるを得なかった。その後は独学で天文学と光学を身につけ、1924年に雑誌で読んだ木星のスケッチの記事に刺激されて自分の望遠鏡を作ろうと決めていた。1926年から、部品を集めてレンズや鏡を手で磨き、望遠鏡を次々と自作した。鏡の検査のため、つるはしとシャベルだけで長さ約7メートル、深さ約2.4メートルの穴を掘り、これは家族の根菜貯蔵庫や避難所にも使われた。
自分の望遠鏡で観察した木星と火星のスケッチをアリゾナ州フラッグスタッフのローウェル天文台に送ったところ、力量を認められて採用された。天文台長ヴェスト・スライファーのもとで、パーシヴァル・ローウェルが予測した海王星の彼方の未知の惑星を探す任務を与えられ、1929年4月6日から、数夜おいて同じ星野を撮影し、ブリンク・コンパレーターで見比べて動く天体を探した。1930年2月18日、前の月に撮った写真と比べて動く天体に気づいた。軌道は海王星より外側にあり、小惑星ではないと確かめられて、ローウェルが予測した第9番目の惑星と判断された。名前は当時11歳の少女ヴェネチア・バーニーの提案が採用され、1930年5月1日に正式に採用された。黄泉の神プルートーが姿を消せること、頭の2文字がローウェルの頭文字と同じことなどが理由とされる。
その後も新惑星を探したが、同程度の明るさの惑星は黄道付近で見つからなかった。ローウェル天文台での観測で、数百の変光星、800近い小惑星、二つの彗星、29,000にも及ぶ銀河を発見している。小惑星のうち、アネットとオールデンは娘と息子から、パッツィは妻パトリシアから名をとっている。1931年には王立天文学会からジャクソン=グウィルト・メダルを贈られた。1932年にカンザス大学に入って1936年に学士号を得、修士号も取得して、天文台に戻った。第二次世界大戦中の1943年から1945年には、アリゾナ州立大学で海軍に航法を教えた。戦後は1946年からホワイトサンズ・ミサイル実験場で9年間働き、1955年から1973年の退職までニューメキシコ州立大学で教えて惑星の観測計画を率いた。引退後も望遠鏡を作り、トンボー基金のために講演して回った。
1997年1月17日、91歳の誕生日を迎える直前にラスクルーセスの自宅で亡くなった。遺灰の一部は、2006年に打ち上げられた探査機ニュー・ホライズンズに納められた。
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